世の中の大半の男女は、子孫を作るのが目的でセックスをする。それはそれで結構なことで、わたしごときがどうのこうのというようなことでない。ただ、子供のみが目的なら、排卵期だけしてりゃ良いじゃないかと。従って、子供は結果できたと云うのが正しい。
にもかかわらず、小供は子供なりにアイデンティティーとかレーゾンデートルとか囂しい。必要とされる人間などいないだろうし、存在に意味や理由などあるわけもなかろうに。
ニュースによると子供のイジメによる自殺者が減らないそうな。子供は学校が社会のすべてだと思い込んでいる、それゆえの自殺である。わたしはイジメに遭った瞬間から学校へ行かなくなった。喧嘩をしてまで、学校へ行く理由がわたしにはなかったからである。
わたしは中学校の入学式には出席したが、それ以降の式典には一切出席していない。よって学校時代の友人はことごとく卒業と同時に縁が切れている。永田耕衣や多田智満子、種村季弘など素晴らしい友人に恵まれたが、それらは自分で合いに行ったのである。
二十歳にもなって、成人式などと云う官製の偽善式へ出掛ける気がしれない。そもそも二十歳になるなど、呪われてしかるべきである。二十歳になって着飾って出掛けるような能転気なひととわたしは付きあいたくない。
何年も付き合いながら、一度も射精しなかったひともいる。相手が避妊していなければそれは当たり前で、でなければ隠し子がぞろぞろ列をなすことになる。
ただし、子供が欲しいと思っている方にとってこれは裏切りである。そのあたりの見極めが難しい。極力、生真面目な方は避けているつもりなのだが、当方に見る目がなく、結果裏切ることになる。
その逆もあって愕かされる。借りてきた猫のような存在だった女性がある日、とんでもない種類の性に目覚める。通常の性を一足飛びに超えているのだが、わたしには対応できない。なぜなら、ひとはひとに人生相談を打ち明けないからである。たまに相談するひともいるが、それは形だけで、答えはそのひとのなかでとうの昔に決まっている。結果が決まらなければ、ひとは咨詢するものでない。結論は見守ることだけである。