原爆に対するさまざまなテレビ番組が顕われる。然るに、その姿勢は年が変わっても同じである。被害者意識一色なのである。日本人は先般の戦争責任をどのように解釈しているのだろうか。日本人の死者は戦闘員と民間人を合わせて213万4000人、それに比して、太平洋戦争に於ける米兵の死者数35万4523人。他に、中国約1700万人、朝鮮約20万人、ベトナム約200万人、インドネシア約200万人、フィリピン約105万人、シンガポール約5000人、ビルマ約5万人。アジア全体で2230万5千人である。実に日本人被害者の10倍を超える被害者数である。(「新・ぼくらの太平洋戦争(2002)」本庄豊)
南京虐殺の被害者の数で悶着を起こしているようだが、そのようなことを遙かに凌駕する被害者数である。ナチスによるホロコーストで犠牲となったユダヤ人は600万人以上、最多で1100万人を超えるとされているが、実にそれに倍するアジア各国の人民を日本人は虐殺している。
原爆にかんする番組で唯一感心させられた番組があった。ETV特集「立花隆 次世代へのメッセージ~わが原点の広島・長崎から~」である。例の香月泰男の「赤い屍体と黒い屍体」のはなしである。
シベリアで抑留されていた香月は述べる。中国からシベリアへ向かう鉄道の線路脇に打ち捨てられていた日本人の屍体。生皮を剥がれ筋肉を示す赤い筋が全身に走った赤い屍体。教科書の解剖図の人体そのままの姿だった。憎悪に駆られた中国人に殺されたに違いない、と。
日本に帰ってきてから、広島の原爆で真黒焦げになって、転がっている屍体の写真を見た。
黒い屍体によって、日本人は戦争の被害者意識を持つことができた。
みんなが口をそろえてノーモア・ヒロシマを叫んだ。
まるで原爆以外の戦争はなかったみたいだと私は思った。
私にはまだどうもよくわからない。あの赤い屍体についてどう語ればいいのだろう。
赤い屍体の責任は誰がどうとればよいのか。
再び赤い屍体を生み出さないためにはどうすればよいのか。
だが少なくともこれだけのことはいえる。
戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。(香月泰男「私のシベリア」より)
戦争に限らないが、継承とはなにか、なぜ継承が必要なのか、大事なのはそこから生まれる懐疑であって、継承そのものではない。被爆体験と戦争体験は入れ子になってい、片側だけを取り出して考察することなんぞ、まったくナンセンスである。被曝について語るとは、取りも直さず、維新以降つづいてきた日本民族の他民族への差別と搾取そのものを語るに等しい。先般の戦争に対する日本人のとち狂った被害者意識が昨今の中国や韓国との軋轢を生んでいる。
先項で日本人の熱狂について書いた、今回は日本人のいかがわしさについて述べたつもりである。核をなぜ廃絶しなければならないのか。いかがわしい民族を滅ぼすに、核ほど相応しいものはあるまいに。