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友来たる   一考   

 

 5日に幹郎さん来神、4、5時間はみっちり話し込んだ。毎日に掲げられた五木寛之さんの取材記事「敗戦、ついえた熱狂」を種に話しは続いた。短い文章なので引用しておく。

 お祭りでした。花火が上がり、花電車が走って。
 <五木さんが5歳だった1937年、日中戦争で当時の中華民国の首都・南京が「陥落」と伝えられた。ソウルは日本人の祝賀行事でにぎわい、父と街へ見物に出かけた>
 「尽忠愛国」で民衆の心は燃え盛っていました。軍部の独走は国民の支持があったからこそ可能だったのでしょう。
 <人々は新聞やラジオが伝える「日本軍の快進撃」に歓喜していた>
 一日も早く立派な軍人になるのが夢でした。あこがれのヒーローは軍人でしたから。軍人勅諭の全文を今でも覚えています。数々の軍国歌謡も。あらゆるサブカルチャーが戦争に彩られていました。
 戦後、物書きになってから料亭での宴会で、何かやれって言われ、何もできないから、(戦時中に学校で教えられた)手旗信号をやりましたよ。全然ウケませんでしたが(笑い)。
 <45年8月15日、敗戦。人々の熱狂はついえた。この時12歳、旧平壌第一中学校の1年生だった>
 夢から覚めたような、きつねにつままれたような感覚でした。
 <まもなく、まちにソ連軍がやってきた>

 38度線を境に北か南かで敗者の状況はまったく異なる。南は帰郷、北は抑留である。この件は後述するとして、わたしが強調したいのは五木の云う日本国民の熱狂についてである。幼少期を朝鮮で過ごした五木にはこのような文章が多い。しかし、いずれもが一読に値する。

 日米開戦を東条は後から知った。あの大戦は国民と天皇との共同謀議だったとわたしは思っている。日比谷焼打事件を持ち出すまでもなく、日本人が内包する熱狂は一方で大正デモクラシーの推進力にもなったが、他方アジア全域に途方もない厄災をもたらした。
 東京大空襲と重慶爆撃では質が違うとの意見を吐露するひともいるが、重慶爆撃は1937年のゲルニカ爆撃に続く最初期の組織的な戦略爆撃として位置づけられている。また、終戦時、ソ連の占領した満州、北鮮、樺太、千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアをはじめとするソ連各地に送られ強制労働をさせられた。ウイリアム・ニンモの「検証-シベリア抑留」によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明、推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。
 その逆になるが、バターン半島の米比軍約7万6千名の捕虜のうち、カパスの収容所にたどり着いたのは約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、そして日本軍の処刑などで死亡している。バターン死の行進よりさらに苛烈だったのが、サンダカン死の行進である。豪英軍兵士捕虜に対する死の行進であって、1000人以上の捕虜が7人を除き全員死亡したとされる。

 祝祭を咒い、戦争から震災と云った折々の厄災に心を奪われず、事象もしくは時代そのものにそびらを向け、ひとり「細雪」を書き綴った谷崎潤一郎をわたしたちは知っている。そう云った希有な個の営みにこそ、思想があるのでないだろうか。


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2015年10月11日 04:14に投稿された記事のページです。

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