福原にいた少年期、ほぼ毎日お好み焼きを食べていた。粉焼きと称していた「美丁」、「新橋」、「よっちゃん」、浮世風呂の「ゑびす」の南隣にあったお好み焼き屋、今ではお食事処「竹」となっているが、この「竹」が50年前のお好み焼き屋かどうか分からない。生田耕作や広政かをると行ったのを覚えているが、当時店主は既に50歳代、生きているはずがなかろう。いずれにせよ、現在残っているのは「よっちゃん」のみ。
「美丁(よしちょう)」はお好み焼きの元祖だったが震災でなくなった。「新橋」は美人の娘さんがい、「100万ドル」のバーテンの溜まり場だった。「よっちゃん」は父親が懇意にしていた、当然先代もしくは先々代の頃である。「よっちゃん」の隣にはふぐ料理の「現直し」が営業を続けている。新開地の「明石屋」と共に毎週のように通っていた。
引越してきたのだからどこぞお好み焼き屋でもと思うが、大蔵天神町にあった店舗はなくなっている。「五」も代が変わっている。飛び込みで這入ったもののソースを大量に塗りたくってい、いまのわたしには食べられたものでない。外食産業の味が濃くなったと日頃書いていることだが、それは「つくし」ですら例外でない。ラーメンとお好み焼きは塩分の塊のごとき食い物である。このようなファーストフードは家で造るに限る。
「夏の風物」でわらび餅やしがらき餅について触れた。文中、「するめのゲソの甘露煮を食べ過ぎて腎不全になったのかも」と書いたが、そこにお好み焼きも加えるべきだった。
余談ながら、「玉家」「いろは」「ゑびす」はかつて同じ経営だった。「玉家」のホームページには「神戸「玉家」は、淫らな「熟女」と「人妻」の専門店です。男をむさぼる火照った躰を持て余したオトナの女性が、欲望の趣くままにエロスを追求する店です。神戸の熟女を、ご堪能下さい」とあって、玄関の看板には「熟女専門店」と記載されている。
「いろは」のホームページには創業昭和60年となっているが、これは昭和60年に経営が変わったのであって、店は売春防止法が出来たときからある。
わたしが贔屓にしていたのは「暖流」と「源よし」だが、後者は「おいらのチョコばなな」に変わっている。「源よし」の女性は福原では最年長で60歳なら若手とされるような浮世風呂だった。それが若さが売りのソープになっている。昔、若さが売りで福原へ初進出した雄琴系のソープランド「シンガポール」は現在の「ダンディーズクラブポール」になっている。隔世の感あり。