どなたかの面影を探す。とりわけ京都という街ほど記憶や形見、心によみがえるものと照応し合う街もあるまい。多くの友をわたしも失いましたが、縊死して果てた友の片影がつらくて京都から足が遠のいた時節がありました。
そうしたたたずまいと云いますか、匂い、アンビアンス(周辺の雰囲気)が文章にも必要と思います。言い換えれば、文章を著すときにもっとも大切なのは「周辺視野」でないでしょうか。自分が描きたいことに集中していると周りへの気配りが稀薄になります。周りへの気配りが薄らげば薄らぐほど文章は独善的な趣をもってしまいます。他人の目を通過したときに文意がどのように変貌していくのか、そのあたりへの心遣い、留意が文章を馥郁たるものに仕上げていくのだと思います。
生意気なことを云うようですが、編輯者としてはわたしに一日の長があると愚考します。とにかく、執筆していただき、最後の仕上げはお任せください。
「湯川書房について」では、些かきついことを書きましたが、伊東さんをはじめ、みなさんが湯川さんにシンパシーを感じて集った人々だと思っています。ただ、遺されたひとを悲しませたり、憤りを憶えさせるのはいけません。「冗談が判らなかった」で済む問題ではないと思います。自分が知っていることと、書いてもよいこととは必ずしも重なり合いません。要するに、伊東さんの周辺視野が少し曇っていたように思うのです。忖度は控えなければなりません、それよりも事実の重なり、繰り返しのなかに湯川成一を立ち上らせることが肝要です。
70年代に関西にあって湯川書房という希有な冒険を試みた出版社があった。あなたがご存じのとおり、出版は金銭との壮絶な戦いです。その事実を後生の人たちに伝えなければなりません。それはわたしたちの仕事だと思います。