入院はあと十日から二週間かかりそうだが、今週の一週間でなんらの結論が出ると思う。出てもらわないと困る。
それにしても医師は非日常の、謂わば達人である。拙宅に用事があるというと、どんな用事なのか、その用事と腎臓とどちらが大事か、と問いかけてくる。彼は何時も手術をしていて、患者のあいだを走り回っている。その過程で医師としてのぎりぎりの生き方を、最終的な価値観を自ら描いている。言い換えれば、非日常の頂点たる医師そのものを生きている。例え三人の子供を儲けたにせよ。そして、それは患者にも跳ね返る。おそらく、逆らう患者はいないだろう。
どうやら、わたしが生活を気にするのが理解できないといった風情である。その度々にわたしは保守的になったなあ、との思いを抱く。こんな筈じゃなかったのに、どこで間違えたのかしら、もしくは老いてしまったなあ、と。
人は若ければ若いほど、非日常を生きる。わたしもかつてはそうだった。生活なんぞ、他人任せだった。大体がどうでも良かった。唯々、がむしゃらに生きる日々があり季節があった。今回、瀬戸口医師を視て、わたしは惘然として自失している。もう一度、人生をやりなおそうか、と。
六十五歳になって久し振りに孤独と向き合うひとと出遇った。