絹地の服を着た見るからに裕福そうな老人が男女ふたりずつのお供を連れて泌尿器科にいた。不安そうな顔と安心させようと務める回りのひとの華やかな装い。どのような関係か、どのような状況かは詳細を聞かなくても分かる。
糖尿でクレアチニンが上がり、シャントの施術準備に病院へとの雰囲気。理由は異なるがわたしが北里研究所附属病院へ入院したときと同じ消息と見た。本人は透析を嫌がっているが、シャントの準備ということは透析の不可避を意味する。お供はあくまで予定であってクレアチニンが下がり、透析には至らない可能性もあると口説いている。ありえない気休めである。
畜肉類ばかり食してきた天罰とわたしはおもうのだが、そのようなことは云われない。お供は説明を医師、看護師から受けているようだが、本人はクレアチニンが下がる可能性にしがみついている。
老いてからの透析の大変さは理解できる。いかに裕福であろうと透析はひとりで受けなければならない。代理人は立てられない。個であることと向き合い、個であることを身につまされる。大体がこのような場へ高級自家用車に乗り共連れで来ること自体、彼のこれまでの生き方を雄弁に物語っている。自らの意志や権力が通じない世界、それが自らの身体でないだろうか。智力や意識が意味をなさなくなるカオスが体内に巣食っている。そのような当たり前のことは二十歳ぐらいで弁えておけと云いたい。
現状では取り付く島もないが、体内に蠢くカオスと精神とのあいだで繰り返される弁証にこそ思想があるやもしれず。口先だけの思想なんぞ御笑い種である。
追記
繰り返すが、自らの表層としての智のなかには結果として権威、権力志向しか存在しない。その智から遠く意識下に位置し、意識の深層部に水準器を下ろさねばならない思考とでは構造ならびに働きがまったく異なる。たまには智を脱ぎ捨てて考えてみることこそ必要でないだろうか。