オリンピックに興味はないが、卓球にだけは関心がある。それは山本六三が自前のラケットを持っていたからである。グリップ部にコルクを使用した日本式ペンホルダーだったと記憶する。わたしは自前のキューをもっていたことがあるが、どうにもならない安物だった。
山本六三はなにをするのも、どこへ行くのもわたしと一緒だったが、卓球だけは見せなかった。理由は彼のダンディズムにある。きっと上手くなかったのであろう。卓球は動体視力と反射能力、高い瞬発力や持久力が必要であり、技術面、フィジカル面ともに総合的な実力が要求されるスポーツであり、そのような能力が六三さんにあったとは信じられない。
彼はなにごとによらず、スタイルから這入るひとで、彼が好んだ机龍之介、眠狂四郎は共に、そうしたスタイリストの典型だった。机龍之助は、小説「大菩薩峠」に登場する元甲源一刀流の剣士、音無しの構えで知られる。日本の時代小説におけるニヒリスト剣士の系譜の事実上の元祖。眠狂四郎は円月殺法で知られる剣士で、同ニヒリスト剣士の系譜と柴錬の作風を貫くダンディズムが融合する。
思うにニヒリズムを標榜する剣士がふたりともスタイリストだったというのも妙なはなしだが、その辺りがわが邦の時代小説の限界だったのかもしれない。ニヒリズムに対する理解などどこにもなく、安易な商売用小道具として利用されたにすぎない。
さて、福原愛さんは自らのスタイルにこだわりを持ってきた選手で、そのスタイルが通用しないと泣き出して駄々を捏ねる。片や、石川佳純さんは自らのスタイルを持たない。スタイルがないがゆえに中国の選手とも互角に闘える。バックハンドやサーブのトスの高さを変えるなど、変幻自在の戦い方が可能である。彼女が勝とうが負けようがどちらでも良い。見処は机龍之助の概念を書き換える選手の到来にある。