知己が独立するとか。とは云え、心裡留保は得意とするところでない。よってこの種の書き込みは苦手である。苦手というよりもどうでもよい、みなさんが一度は経験することだからである。
親はいずれ死ぬ、望むと望まないとにかかわらず、例外なく子等らは自らの生計と取り組むしかない。独立する、言い換えれば行政サービスを受けるには税金を自分で支払わなければならない。市県民税、保険、年金、所得税の類いである。従ってさまざまな準備が必要になる。独立を意識してから数箇月乃至数年はかかる。最大の問題は生計費だが、食生活の勝手も大きな問題を孕む。そのための準備をしてきた人ならいざ知らず。用意のないひとがいきなり家を出ても早晩戻ることになる。
昨今はファストフード店が発達したと云うが、かようなもので生涯押し通すことはできない。わたしが十代のころ、板前修業をしたのもそれがためである。醤油の使い方、味醂の使い方、出汁の取り方、なんでもないことが大きな障害になる。どうでもよいことだが、拙宅ではキャラメルを一箱買えば半年はある、チョコレートを一箱買っても半年はある。そのような物品に遣う金数はないからである。
今は透析治療を受けているので無断で休めば看護師が走ってくださる。命が懸かっているので透析を休むのは考えられない。しかし透析をはじめる前は大変だった。入浴中に昏睡状態に陥ると手の施しようがないからである。入浴前には命懸けであることを自らに五月蠅いほど言い聞かせていた。一人住まいだとそのようなことも問題になる。障害者に限らず、人は常に埋められない間隙を背負っている。
さて、知己はどうするのであろうか。生活の場にあって伊達であろうが不恰好であろうが、そのようなことはどうでもよいことである。生計を独立させてはじめて間隙に情念が割り込んで来るのでないだろうか。