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読書   一考   

 

 「愛読書、といふより人生の書として司馬遼太郎、藤沢周平、山本周五郎の歴史小説を挙げ、一方で、ここに名前を書くのも憚られる絶対に詩ではない安手の人生訓の作者の言葉を座右の銘にする。いつになつたらかういふ政治家がゐなくなつてくれるのか。文人政治家といふのはこの国ではつひにあり得ないのか」と高遠さんが嘆いている。
 最近頻繁に出掛ける歯医者に相田みつをの書がたくさん掛けられている。「うつくしいものを美しいと思えるあなたのこころがうつくしい」の如くたわいない作品である。詩人なら「うつくしい」との言葉は用いない、また「うつくしい」との言葉の概念に対する考察を端から放棄している。別に誰がだれの作品を愛唱しようが心にとめようが勝手であって、他人がとやかく云うことでない。ただこれほど思慮のない箴言風の作品が詩だとは驚きを通り越して呆れ返る。
 上記三名、司馬、藤沢、山本などは政治家に限らず、経済人も好みとするところである。文人経済家との言葉があるかどうか知らないが、左右経済人もものを考えない人種である。この「ものを考えない」は時代に関係なく存在する。おそらく大多数がそうであろう。
 星新一や小松左京を好きな方がいらっしゃる。対象が森茉莉か倉橋由美子ならいざ知らず、よりによって星、小松とはどういうことなのであろうか。前述の経済人同様、よほどものを考えるのが嫌なのだと思われる。そしてその御仁は自らの考えのなさを趣味の違いで片づける。文学の世界に趣味とはなんたることであろうか。「趣味は読書と音楽鑑賞」ですとの陳腐かつ低劣な言い種を思い浮かべる。星新一や小松左京にしても断じて趣味でものを書いているのでない。
 ひとは生きて行くなかでさまざまなことで壁に頭を打ち付ける。その度にひとは変わりもしくは深化する。ひとは救いを求めて書物を繙くのであって、癒しや楽しみ乃至教養を求めて読むのでない。
 理解できない書物と出遇ったとき、ひとは自らの不明を恥じる。その対象がプルーストであれベケットであれ、事理に暗いこと、識見のなさを思い知らされる。ならば対象の内に融合し、解体する努力こそ問われるべきである。ラルボーのいう弁証法的読書が有効になる一瞬である。
 読書は生涯続く、続く限り人は迷い憂え頭を傾く。反芻を必要としない文学など、それだけで如何わしい。高遠さんは「「相田みつを」的なものに私も蟷螂の斧ではあるけれど、抗し続けてゆくつもりである」と書く。「安手の人生訓」即ち分かり易い文学に心惹かれる人の思考回路は相応に平易であるに違いない。そして人生をエンジョイできるものと信じているに違いない。お手軽文学結構、ただしわたしはそのような方を知己にする気は毛頭ない。

追記
 悪口を著すに引用されるのは迷惑千万、それを承知の引用である。お許しを乞う。


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2011年09月05日 13:25に投稿された記事のページです。

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