能転気は脳天気の間違い、心良いは快いの間違いとの指摘を校正を生業とする方から受けた。わたしも校正をいささか囓ってきた。共に間違いではないので、言葉の前後のつながり、もしくは意味合いによって変える、あとは好みと云うことになろうか。ただし、どこそこの辞書ではこうなっている、と云うのは間違いである。信じられる辞書などあろう筈がない。とりわけ漢字に関しては顕著である。それにしても脳天気と記載された辞書があるとは不思議である。
わたしは過去読んできたさまざまな書物から得た知識を基調にしている。なかには無理な遣い方もあるが、それは承知の上である。逆に明治、大正期の無謀とも云えるような遣い方にこそ個性がある、と信じている。
わたしが著す文章に関してなら出典を明らかにすることができる。文字というものは統一されれば個性がなくなる。不用意乃至無意味に統一する校正は校正でないとすら思っている。言葉は生きものである、だからこそ、慎重な取扱いが必要になる。怠れば言葉は感染症に罹る。感染症で止まれば良いが、昨今は重度の肺炎に罹っているのではないかと思う。