前原元外務大臣の弁だが、かつて大阪のオバハンが駐車禁止のチケットをくしゃっと丸めて食べてしまうとの傑作CMがあった。オバハンの言い分は「なんでわたしだけが捕まるの」にある。わたしを捕まえるならあの人もこの人も捕まえてこその平等でしょうとの叫びである。
どうしてわたしだけが契約社員であの人は正社員なの、どうしてわたしだけが身障者であの人は健常者なの、どうしてわたしだけが独身であの人は女にもてるの。これらはおそらく説明の付く問題であろうが、わたしには説明する気は毛頭ない。多分に偶然性が介在するので、なにを云ってもことを煩雑にするだけである。
平等との概念は悋気や差別の概念と深く結びついている。マイノリティーの問題と同じで、根が相対的であるがゆえ、明解な解答は見つかるまい。なにを発言しても条件付きの発言しかできない。分かり易く云えば、ことごとくは好悪の問題に帰着する。その帰着点でもって、こころのなかは常に内戦状態である。かかる状態とご縁のない方は能転気という他ない、もしくは根っからの差別主義者であろう。
わたしなどは差別の表層を撫でているだけで、差別の本質とやらを掴むつもりはさらさらない。何がなににとって差別なのかを見極めるだけでも気が遠くなる。かつての神戸の震災のような非常時には差別に対するそれなりの意見を抱くが、それだって発想の原点は非常に限られた状況である。差別が逆差別を生み、さらに逆逆差別を生む。いっそ片っ端から差別だ、差別だと騒いでいるのが一番良いのかもしれない。
平等とか差別の概念はよく分からないが、悋気なら多少は分かる気がする。されば悋気諍いだけはすまいと思っている。