自ら歳を取ったとは思っていないが、意識をコントロールできないようではなにを云っても詮ないはなしである。意識とは精神の問題ではなく、カテゴリーは肉体に属する。要は脳の問題であろう。肉体の一部として精神はあるが、精神単体での生息は不可能である。ブラックアウトを繰り返すことによって、信じるに至った消息である。言い換えれば、精神と肉体などと云った二元論は成り立たず、さらに包括されるべき筋合いのものと思っている。それも弁証法的な、即ち統一されるような包括でなく、並立されるような意味合いでの包括である。精神と肉体と云ったところで、その間に垣根があるわけでなく、どこまでが精神でどこまでが肉体なのか、その実体は判然としない。判然としないものに弁証法的思惟は無用である。
よって精神論とかこころの問題、気持の持ちようと云った類いのはなしをわたしは眉に唾して聞いている。シュルレアリスムやオカルティスムなるものを聞く気にもなられないのは同じ理由に基づく。それにしても、人は何時弁証法から解放されるのであろうか。考えを深化させたり、助長させるに弁証法はもっとも基本的な方策ではある。しかしそれに拘泥するがあまり、常に対極的な考え方の泥沼に陥る。
高遠弘美さんのプルースト「失われた時を求めて」を繙いていま云ったような「並立されるような意味合いでの包括」を感じ取る。ストーリー然り、時間の概念然り、登場人物然り、それどころか心象それ自体が、表現それ自体がある種の法則に則って並列共存の場に置かれる。ひょっとしてプルーストは誰もが描きもしなかった新たな思想の領域を開示したのでなかったか。