若い頃は徒にセックスのことばかり考えていた。今ではセックス以外のことも考えるようになった。理由は勃起能力がなくなったからである。病院では女が替わればできるんじゃないの、と云って看護師(女性)を笑わせている。勃起能力がなくなったからと云って、性欲がなくなったわけではない。勃起はしないが射精はする、要は性欲は残されているが、ただ三寸ばかりの出し入れが出来なくなったのである。思うに、性欲とイマジネーションががっちりと手を結び会って他人の介在を許さなくなったようでもある。
セックスというものは面白いもので、男の場合は最初に知った女性、女性の場合は最初に知り合った男性によって大きく歪められる。歪められるを染め抜かれると言い換えた方が良いかもしれない。セックスは学校で修学するものでない、学ばずともなんとかなるものだし、人は皆染め抜かれながらも適宜処理している。わたしは福原で育ったので、禁止項目がなにひとつなかった、AVを地で生きてきたようなものである。結果論だが、まったく必要のない経験だったと思っている。そう云えば、完全な結婚などという巫山戯た本があったが、完全なセックスというのも意味をなさない同義語のたぐいであろう。
同性愛にせよ、SMにせよ、持って生まれたところのものが理由の過多を占めるが、なかには歪められてそれきりと云うのもある。このようなものと染められて、そのようなものかと思い込むのもセックスの一形態に違いない。例えばエクスタシーがそれで、有名な某報告によると、女性の過半数はエクスタシーを知らないまま一生を終えるとか。仮にそれが事実だとして、知らないなら知らないで、どのようなものなのだろうかとの夢は残る。そこから生まれるイマジネーションが個が個であるための基本を形成することだって有り得る。別に知ったから知らないからと云って大した問題ではないようにも思われる。
前述した基本だが、スタートが歪められているので、基本も歪められているに違いない。しかし、強烈な個性というものは常にどこか歪である。ワイルドからプルースト、大手拓次から深沢七郎まで、変態を理由にそれらの才能を否定するひとはいないであろう。要するに、例え歪んでいようと不都合を感じないなら、それはそれで良く、触るべきではないのである。
「禁欲とは限りなく淫蕩になること」を持ち出すまでもなく、不能や禁欲は問題にならないが、淫蕩は大切なことである。この場合の淫蕩とは想像力そのものを意味する。