一年ぶりに寡多録が新しくなった。カウンターに並べていたボトルも棚へ収納、随分とすっきりした。あとは今週一杯かけて新規ボトルの調整である。簡単に見えて休みのすべての時間を費やした。
モルト会の解説は概略である。細かく書けば際限がなくなり長くなるので打ち切った。記憶違いは訂正した。「寡多録が新しくなった」と書いたが、こちらは随分と手を入れた。さらに修正を施してゆく予定である。とんでもない間違いが散見されたが、人から注意を受けたことが一度もない。やはり自分で訂してゆくしかない。この種の為事に終わりはない、人生と同じである。
人の生き方の間違いを指摘するのは煙たがられるだけである。とはいえ、自分の間違いは正してほしいと思う。少なくとも、わたしはそう思っている。なぜなら、生きることに対してわたしは素人だからである。何歳になろうとも、これでよいという生き方がわたしにはない、ないと云うよりも理解できないのである。
この消息は調法とも似ている。例えばわたしの田舎は高田だから蛍烏賊の生は子供の頃から馴染んでいる。しかし、物流の発達していなかった時代の神戸では蛍烏賊と云えば湯掻いたものしかなかった。過日引越でmoonさんがいらした時、蚕豆を買ってきたが、彼は湯掻くより焼く方が旨いという。それはきっと湯掻いたものばかり食べて育ったからではないかと思う。料理屋はどこでも焼いたものを出す、従って、わたしにとっては一分以内で湯掻いたものの方がおいしく頂戴できる。第一、面倒でないのがよい。虎魚などは千差万別で、刺身、揚げ物、椀物と囂しい。
それでは調法の極意は珍しさにあるのかとなるが、それはどうやら正しい。わたしは人品骨柄にしても、珍にして奇なるをもって貴ぶ。そう思って今回のモルト会のウィスキーを見回せば納得できる。次回は決して旨くはないが、強烈な個性を持ったウィスキーにしようかと思う。輪ゴムの味、濡れた製材所、黴の生えた下穿き、出来損ないのパヒューム香等々、抱腹絶倒空前絶後のモルト会になる。題して「突飛なるものの」飲み会。