意識というものは決して空間的なものでなく、肉体と歩を共にしている。肉体の搏動は意識の搏動であり、意識の呻きは肉体のそれである。脳であれ、胃であれ、腎臓であれ、変調をきたしている部分が意識のすなわち肉体の中心点となる。その部位に軽重はない。
生死とよく云われるが、人は死が視線内に這入ったとき、はじめて死を意識する。視線内とは人生の射程距離で、残日が数年、数箇月あるいは数日に限定された場合を指す。人は自らの生を意図できないように、死を想像することはできない。できないと云うよりは許されないのである。
若者と老人ではその残日の在り方がまるで違ってくる。人生の落日を過不足なくわたしの前でさらけ出して逝った横須賀功光さんを思い浮かべる。彼がですぺらへ初めていらした日、あと一年の命と宣言なさった。彼が自らの死について語ったのはその時と死の一週間前の二度のみ。だからこそ、わたしは毎日、毎日、零れおちる涙を怺えながら晤語を繰り返した。わたしにとって、死とは常にそういうものであってほしい。