「冗談はさておき」の後に、さらに質の悪い冗談が続くのも一興。あなたが割腹してもわたしには得るものはなにひとつありません。佶屈していますが、励ましのつもりで書いています。その意が通じるかどうかは別にどうでもよいことですが。
これはどなたに対してもそうなのですが、編輯者がよく云う「肉声がない」に尽きると思います。根拠、傷跡、情念、いかなる文言を用いようと要は肉声なのです。その可能性が一分にせよ、間違いなく産声を上げている、だからこそ口汚く罵りもするのです。
世の中を見回して多くの作品は自信に満ち溢れています。それは書き手が自らの作法(意識)に疑問を抱いていないからです。そういう方は勝手になさればよろしいのであって、わたしとは縁なき人々です。迂闊にわたしの前で立ち止まると傷跡を拡げることになります。
「隠された思い」はどなたにも御座います。ならばその思いをこそ描くべきで他に何を描けばよろしいのでしょうか。「思い」が巧く表現できないと悩み、刻苦勉励するのが書き手の務めです。この場合の巧みとは、読み手にうまく伝えられるかどうかです。決して表現の巧拙を云っているのでないのです。文章を著すとは自己を表現し、自己を他者に伝える行為です。伝わらなければそれまでです。況や、思いを伏せていては永遠に思いは伝わりません。わたしが結社とか同人とか仲間に反対するのはその伝達に対する甘えが生じるからです。読者は常に不特定多数であって、書き手が読者の顔を窺うのは不可能です。表現者は常にオナニストであることを強いられます。
わたしは他者の作品に接するとき、ほぼ白紙の状態で向かいます。見落としがないか、気配りが足りているか、わたしの能力で読み切れるのかどうか、アプローチを変えた方がよいのでなかろうか等々。当然、至らない点も多々御座います。しかし、その至らない部分を突っついてどうして理解できないのかと問われるのはご免被りたく思います。
さて、玲さんはいつも恋愛なさっているべきです。恋愛は下らない自意識などからの蝉蛻を余儀なくさせます。読書と同じで、恋愛は人をどこかへ連れて行きます。常に自己解体の危機に晒されて生きるのはそれこそ大いなる快感だと思うのですが。