異常と正常の概念自体が入れ子構造になっていると思います。なにが異常で、なにが正常なのか、そこに線引きができるようなひとがいるのでしょうか。これはブルトンやジュネについて書いたときに明らかにしたように、相剋する概念というのは非常に珍しい概念ではないでしょうか。ブルトンに云わせると、相剋しあう概念が相剋しあわない至高点がどこかにあるようですが、ブルトンが証明として持ち出した概念に相剋しあうものはひとつも御座いません。花田清輝の楕円の思想にせよ、林達夫の庭園としての弁証法にせよ、それらは対局主義に薄化粧をあるいは厚化粧を塗りたくっただけのはなしで、わたしにとっては新規なものなどどこにもないのです。だからこそ、先項で書いた「書き手の根拠」を問題にするのです。林達夫の弁証法にはなんら興味が持てないのですが、彼の「共産主義的人間」には書くという行為の根拠がしっかりと描かれています。
わたしはベケットが書くような作品には惹かれますが、あのような作品が日本で生まれるにはまだ五十年早いと思っております。ベケットの作品は根拠と疑問の繰り返しのなかにかろうじて屹立しているような作品です。
「不満の捌け口」と書きましたが、内的体験でもかまいません。「内心はアンビバレンツに晒されて」いるとか、ならばその不安定な心情そのものを不安定に描いてくださるまいか。書くものが結果として妄想になろうが、狂気の衣を被っていようが、いかなるホームドラマよりも素敵な作品になると思います。あなたの綱渡りに興味はありません。作品だけがあなたとわたしを繋ぐカラザです。繰り返しますが、綱渡りが破綻してゆく様を読みたいのです。小説らしく取り繕った作品を読むのであれば、世の中に掃いて捨てるほどあるではありませんか。
わたしは病いに罹ることによって、自身に忠実に、さらに申せば悪意をもう少し前面に出そうと思っております。