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はみだし者   一考   

 

 昔、福原町に柳筋というのがあった。その筋というか通りは今でも健在である。ただ、わたしが近しくした柳筋はなくなった。柳筋がなくなったのなら、桜筋も三十軒筋もなくなったに違いない。しかし、桜筋や三十軒筋と違って、柳筋はどこか名状しがたいですぺれーとな街だった。桜筋や三十軒筋が女郎屋、待合い、仕出し屋、置屋の街なら、柳筋にはその筋からはみでた人たちがたむろしていた。特に柳筋の東側にはちょんの間がところ狭しと犇めいていた。赤線地帯に隣接した一条の青線もしくは白線(ぱいせん)のようなもので、歌舞伎町の新宿ゴールデン街や横浜の黄金町と同種の街だった。
 わたしが新宿ゴールデン街へ好んで足を向けるのは、あの街には遠い幼少期の思い出がいまなお漂っているからかもしれない。ちょんの間は二階屋で、一階に小さなカウンターがあって二、三人這入れば満員御礼である。冷蔵庫などという気の利いたものがなく、ビールをロックで飲ませるか、燗酒の二種がメニューのすべてで、他にはチーチク(竹輪の穴に乾酪を差す)、チーカマ、魚肉ソーセージ、目刺し、あたりめのフライか醤油焚き、それに鯨か牛罐と銘打たれた畜産肉の罐詰などが用意されていた。それだけ書くとまるで角打ちのようだが、ちょんの間の客と角打ちの客とでは目的が異なる。
 やがて二階から客が降りてくる。ばつの悪そうな、済まなさそうな顔をして「おさき」といって夜の街へ消えてゆく。すかさず女が階段の上から顔を覗かせて次の客を急かせる。カウンターの婆が袋入りの乾きものを破り、「あと一回戦だよ、一回戦。すぐだからね、これでも喰ってな」。ちょんの間を営むのはあらかたが親子である。
 母が客を品定めし、娘が客を取る。昔からある風景なのだが、昭和三十年代から四十年代の柳筋にはまだ戦後の息吹がそこかしこに残されていた。父母は交番を派出所、JRを省線と呼んでいた。その派出所が柳筋西側真ん中にあった。向かえにわたしが日参した浮世風呂「暖流」があって、その横の筋に三軒のちょんの間があった。子供の頃はちょんの間でバヤリースジュースを、十五六歳からは燗酒を嗜んでいた。「暖流」に限らず、「えびす」「いろは」「たまや」等々、往時の浮世風呂にはわたしが親しくしたバーテンたちがい、ちょんの間では恋の手習いを、浮世風呂では洋酒の手ほどきを受けた。
 「その筋からはみでた人たち」と前述したが、どのような世界にもはみだし者、世にいう零落者がいる。なるようにしかならないと固く信じ込み、すべてを投げ打った人たちである。喰うための必要最小限のこと以外、目もくれない。そういう人たちに見守られてわたしは育った。


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2010年01月07日 23:33に投稿された記事のページです。

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