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湊川   一考   

 

 「山上の蜘蛛」の文中、「日本残酷物語」からの引用がある。「バラック・・・が川の上にまではみだしている。川に満足に水があるのは雨のあとと満潮のときだけである。たいていはむきだしの河床にごみが堆積して異臭をはなっている。橋のちかくの共同便所を、附近の数十軒が常用する有様だから、川が水洗便所に代用されているのはいうまでもないが、肝心の水がなく、川は流れないのだから、いわば大きな露天の便所地帯といったほうがよい」
 これは長田に限らない。わたしが幼少の頃、湊川市場の北端、湊川に添う形で丸新市場と新町商店街があった。会下山の暗渠の手前である。満州からの引き揚げ者ばかりが「日本残酷物語」さながら、川の上へ一メートルほどせりだしたバラックを建てていた。ニクテン、串カツ、饂飩、寿司、喫茶、玩具、古着、古靴等々、市場からはみでた商店が新町商店街を構成していた。対岸から見れば洗濯物と垂れ流し式便所のオンパレードといった感じで、戦後はどこででもお目にかかる情景だったに違いない。
 湊川市場の南端のミナイチについても触れられているが、役所裏のミナイチと電車筋(荒田一丁目と福原町の境)の間にニクテン横町があった。十数軒のお好み屋が軒を並べ、とはいってもすべてバラックで、屋根はトタンの波板。新開地周辺にもゴールデン街はあったのである。子供のわたしはカストリこそ飲まなかったが、飴湯、ソップ、ラムネを片手に新聞紙に包まれたニクテンをほおばっていた。当時のわたしにとって市場は恰好の遊び場だったのである。

 「寿」のことは書かれているが、現代詩神戸研究会の同人が必ず流れた東門筋の西側、確か(タキイ)といった小さなバーについては触れられていない。わたしが現代詩神戸へ這入ったのは1963年7月、16歳だったと記憶する。神戸在の詩人の多くと面識を得たのはその「滝井」とかいうバーだった。日教組の溜まり場のような薄暗い店で、オーシャンの当時シルクハットと称した安ウィスキーを飲まされたのを覚えている。

追記
 にくてん横町とは俗称であって、そのような地名があったわけではない。ごく一部の人たちが勝手に名付けて用いていた。今なお営業を続けているお好み焼き屋に「とみちゃん」がある。


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2009年10月09日 23:32に投稿された記事のページです。

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