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虚しさ   一考   

 

 先日、友と語らった、わたしはなにをして来たのだろうかと。きっと、このままなにもせずに朽ち果てるのであろうかと。こんな情けないはなしができるのは友を除いて他にはない。
 何者かになろう、何者かでありたいなどという願いは十七歳のときに捨てた。結果として何者にもならなかった、従って云うべきことはなにもない。意志弱行、無為徒食の輩とはわたしのような人間を指すのであろう。それにしても、六十を過ぎて何者でもないというのはいささか侘しい。偶につらく思うときがある。
 往時わたしは詩らしきものを書いていた。しかし典籍を繙けば有明、泣菫、清白がい、同時代には多田智満子や高橋睦郎がいた。昭和三十九年に「薔薇の木・にせの恋人たち」が、翌四十年に「眠りと犯しと落下と」が、そして四十一年に「汚れたる者はさらに汚れたることをなせ」が上梓された。嫉妬と羨望を持ってそれらの詩篇を仰ぎ見ていた。詩人というものに、どうにもならない隔絶をわたしは感じていたのである。その隔絶が昂じて、わたしはことばの職人になることをやめた。ことばに対して自由民主主義者となり無政府主義者となった。

 前項で触れたように、土地、ことば、民族、国家、宗教、文化、歴史、伝統などにこだわる人にわたしは近づかないよう心掛けている、たとえ親であろうとも。なぜならいずれの項目を採ろうとそこにはアイデンティティーが、そして排他性がつきまとう。自らが置かれた立場、経験、知識がものをいう世界だからである。この「立場」「経験」「知識」という概念は哲学的に問題の多い概念である。解釈いかんによって覆う領域がいかようにも伸び縮みする。
 排他とはバベルの塔以来、神がひとに与え給うた戒めから生じたものでなかったか。


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2009年04月18日 21:26に投稿された記事のページです。

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