「板橋の貧民窟はどのへん」との質問に、佐藤さん(編輯者)が紀田順一郎さんの「東京の下層社会」を指摘なさっていた。「関東大震災後東京最大のスラム」といわれた場所は、交番と「縁切榎」のあたりを中心とした「岩の坂」で、当時の東京市によって「不良住宅地区」に指定されていた、と書かれているのがそれである。
昭和五年の四月に東京朝日で報じられた、養育費目当ての「もらい子殺し」は別名「岩の坂事件」として、世間の耳目を集めた。宿場町でも、駅を平尾地区に取られ、そこからもっとも離れた寂れた場所に、震災後貧民が流れ込んだというのが実態らしい。以上のメールが先程芳賀啓さんから届けられた。
ところで、ナベサン文学散歩には周さんとその友人が参加なさった。途中で飲み屋へ三十分ほど脱線、そこでの周さんとの会話が「忘れ物」である。上昇志向のひとが嫌だとの彼の言葉への私の応えである。このような会話ができるようになった彼を好もしく思う。周さんに分かっていただきたいのは書誌学とはかような散策にあるのであって、決して読書だけで得られるものではないという点である。
馬頭観音の次に立ち寄った文殊院は投込寺だった。南千住の浄閑寺、浅草の西方寺、新宿の成覚寺、品川の法禅寺、海蔵寺などが知られるが、浄閑寺の過去帳には売女や遊女との戒名がみられる。文殊院にも妙○信女との戒名が続き、なかには獣、熊、狛、鬼などという然るべき階層のひとたちの戒名が散見された。両親の死に伴う法名には嫌な記憶しかない。私の死には一切無用である。
私は酒を飲むときは一日でも二日でもなにも食べない。そのような教育を受けたからである。よって今回も芳賀さんに迷惑をお掛けした。ここに記してお詫び申し上げる。体調思わしくなく私は帰宅したが、周さんは朝までナベサンで痛飲、ナオさんに多大な迷惑をお掛けしたようである。若い時はなにをしても許されるが、やがて許されなくなる。ほどほどに。