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訃報   一考   

 

 早朝、浪速書林の梶原正弘さんが昨夜亡くなったとご子息の武文さんから連絡があった。今日が通夜で、葬儀は明日十三日十二時から、大阪府池田市新町一の十六の弘誓寺(ぐぜいじ)会館にて。一年に及ぶ闘病生活の果てだそうである。七夕市や明治古典会など大市がある度に上京、必ずですぺらへ立ち寄っていただいた。
 (続きは明日)
 本が好きだったので黒木書店、浪速書林、田村書店と家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。神戸在のころは梶原さんと泥酔、福島の旧宅で何度もご厄介になった。旧宅の入り口には金網を張った一画があって、梶原さんのお子さんが蛙を飼っていた。梶原さんはいくら酔おうが、蛙の餌だけは忘れなかった。蛙は生き餌しか食べない、蠅か蟋蟀である。小さく切った蒲鉾をピンセットでつまんで根気よく鼻先で動かしたり、見えないほど細い針金をつけて動かしたりしても、口に含んだときに動かなければ吐きだしてしまう。活け造り専門の、蛙は美食家なのである。
 「ごねんなあ、ちょっと待っててや」梶原さんは生き餌のはいったビニール袋を大事そうに抱えて戻ってくる。「これなあ、私の人生なんや」「古本屋をやめてペットショップにしたら」「あほ云うたらあかん」そんなときの梶原さんの目はあたたかだった。
 小さい小さい梶原さん、きっと死んでさらに小さく、消え入るように小さくなったと思う、私の父がそうだったように。十代半ばの頃の私を知るのは山本六三、黒木正男、梶原正弘のお三方のみ。そして三人とも鬼籍に入られた、と同時に私の十代も消え去った。存在は記憶のなかにしかない。そして記憶が跡切れたとき、存在したことも消え去る。

 十月の末に山崎剛太郎さんの「夏の遺言」と題する詩集が水声社から上梓された。巻頭に昭和十四年に松下博によって撮影された写真が二葉掲げられている。一葉には信濃追分の径を肩を寄せ合って散策する小山正孝、野村英夫、山崎剛太郎、中村真一郎の後ろ姿が写っている。山崎さんのキャプションがなければ個人を特定するのは難しい。途の向こうへと消え去ってゆく影、顔はなく、存在はなく、そこに在るのは蜉蝣のように立ちのぼる記憶だけ。かかる写真を選択した山崎さんの詩精神とタイトルの「夏の遺言」とのコレスポンドンス、霜の音が聞こえてくるような冴えわたった記憶である。この写真を前にして私は本文を繙くことができなくなった。読むのはいい、ただ泣き出してしまうに違いない。そんな記憶を梶原さんと私も共有していたのである。


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2008年11月12日 20:45に投稿された記事のページです。

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