「意地っ張り」で板前修業の理不尽さを書いたが、考えてみれば簡単なはなしである。フレンチを学ぶ人は語学で頭をぶつける。ひとつひとつの料理の仕込みからあしらいまでをを言葉で覚えていかなければならない。従って、帰郷後は言葉で料理を教えようと務める。一方、和食の世界にあっては語学の必要がない。「見て奪え」「見て盗め」はそこから派生する。
「精神論」と揶揄するようなことを書いたが、板前には調法を言葉で表現する能力が欠けているだけのはなしである。能力が欠けているのかその種の能力が必要とされないのかは同じ結果をもたらす。それでは板前修業の中味は永遠に変わらない。
「素質を持つ板前がみんなフレンチやイタリアンへ逃げ出してゆく」と書いたが、その逆はどうだろうかと考えた。五年ほど基礎をフレンチで習い、その後和食へ転向する。これはよいアイデアではなかろうか。捌きと舌のセンスはどのような料理であろうとも錬磨は可能である。包丁にしてからが、親しくしているフレンチの料理人は片刃を用いている。片刃と両刃では切れ味が異なる。彼等は納得のいくことはどのようなことでも取り入れるにやぶさかでない。
ヒロユキさんとの別れが近づいてきた。彼の将来に対して私のなかで割り切れないものがずっと渦を巻いていたが、どうやら決断を下す時がやってきた。知己にはフレンチやイタリアンで一家を成した方もいる。先日話したところ、八割は三週間以内に辞めてゆく、残りの二割の内三箇月もつのは一人いるかいないかと聴かされた。三箇月我慢できれば五年という年月は問題にならないらしい。語学も料理も似たものである。思うに、挑戦とはそのようなものでなかったか。されば超一流のシェフの元へ送り込もうかと考えている。