前項で著したように、不良を概括的に扱うことはできない。同様に文学を概括的に扱うことはできない、一般論としての文学なんぞ存在しないからである。文学は常に個別的ないしは具体的な問題を提起する。いっそ、不良を学ぶのが文学ではなかろうかと私は思っている。
「自分も社会もくそったれ」と思いつつ、人は生き延びねばならない。人生の前半にあっては自殺を考えつつ、後半はわが身がどのようにしてこの世と別れてゆくのかを考える。あるときは悶え、周章て、狼狽え、畏れながら、死と隣り合わせに生きるのである。生れ来たものの宿命とはいえ、容易ならざることである。
私は学校へ行かなかった。人から教わることを拒否したのだから自分で学ぶしかない。それが理由の読書だった。学研の文庫で加藤郁乎や酒井潔に託つけて私は私自身の読書論を書いた。購入なさった方には申し訳ないが、私は自分のためにのみ文章を綴る。他人のことなんざあ、私の知ったことではない。それこそ「くそったれ」である。「くそったれ」の裏返しには恐怖心が横たわっている。怖いが故の暴力にまみれた人生だった。私が受け容れる他者、それは書物だけであった。