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血について   一考   

 

 おそらく、野溝七生子をもっともセンシブルに描いたエッセイを著したのは種村季弘でなかったか。

 野溝七生子という作家が、都内のさるホテルの一室にもう十数年も終身亡命者のようにひっそりと暮らしていると聞いたのはいつの頃のことだったか。ひょっとするとそれは、私の記憶違いかも知れない。けれどもかりに記憶違いでないとすれば、いかにも『女獣心理』の作家にふさわしい生き方ではあるまいか。大隠住朝市、小隠住丘樊。どれだけ奥深い山林に入っても、そこがしめっぽい風土と地続きであるならば、すでにして隠遁の尻は割れてこれ見よがしのナマ法師が顔を出す。さもあらばあれ、俗塵の只中に空中に吊るした鳥籠のような一室がビル街に宙吊りになり、そこにその人が棲っているのならば、この地面に根づかない箱ほど彼女にふさわしい空間はあるまい、と考えたのである。もっぱら通り過ぎる人のために作られたその部屋はあらかじめ風土から疎隔されており、大地との接触を禁じられているからだ。
 ありきたりのシングル・ベッドを置いた何の変哲もないシングル・ルームが目に浮ぶ。しかし一旦そのなかに純粋な魂がはたらきはじめると、この部屋は化学実験室のようなものに変容するはずだ。そこでどんな化学実験が行われるか。いささか古風な、いまではもう誰も見向きもしなくなっている「対立」という名の実験である。白と黒、童貞と淫蕩、幾何学的知性と非合理、純潔と本能のような、クレロ・オスクラのくっきりと目にあざやかな命題と反対命題とが、一瞬のうちに結合され、攪拌され、みるみる宇宙大の渾沌と化して、さて、その渾沌をたぎらせたビーカーから卵のようにぽんと生み出されたのは、ファウスト博士のホムンクルス。いや、あの不思議にあえかにもはかなげな野溝七生子のファム=アンファンたちである。(「アリアドネーの子ら」種村季弘)

 林礼子さんはこの文章がことのほかお気に召したようである。平成元年二月、名古屋の今池ヘルス通りに独りの部屋を持った彼女はその僑寓をしばしば「鳥籠」と呼んでいる。また、「希臘の独り子」所収の「なめし革の鞭の下で」では、種村さんに倣って野溝七生子の短編「往来」を繙いている。
 「私の中にある生きることへの躊躇は誰から習ったのだろうか。・・・口をひらくたびに誤解をうみ、周囲との不調和に苦しむことが多い。これは私には、野溝一族に流れる血のなせることのように思われるのであるが・・・」と林さんは著す。「幼い頃にうけた父親のなめし革の鞭の痛さ」すなわち現実からの逃避が底辺にあって、「人生は苦悩と悔恨の堆積にほかならない」としながら、一方で父系制社会そのものである血筋から抜けられない。こうした撞着に林さんも取り憑かれていたようである。
 野溝七生子や林礼子に限らない。名前を書きたくないので匿名にするが、前項で触れた「ガーリッシュな私小説の系譜」に属する作家たちは総じて血筋を一大事と捉える。「風土から疎隔されており、大地との接触を禁じられている」のであれば、率直に個としての自己を認め、自らを解放すればと思うのだが、そうはいかないらしい。私も彼女たちから「あなたの血筋にはどのような作家が輩出されているのですか」との質問を幾度となく訊かされた。思うに、これほど傲慢かつ無礼な質問はあるまい。しかしながら、彼女たちに悪意はない。善意に則った上からの、お仕着せの問い掛けなのである。上意にもとずく好意では誤解や不調和が生じるのは当たり前である。言っておくが、林さんのことを書いているのではない、某作家のことである。

 種村さんは誰も見向きもしなくなった二項対立がもたらす渾沌と書く。カオスを相容れないものとして忌み嫌った種村さんであれば、上記文章を素直にオマージュとして読むことはできない。二重、三重の絡繰りがありそうである。「くっきりと目にあざやか」であればこそ、これはもう疑ってかかるしかないのである。いや種村さんなら、あるがままに書いたまでだよ、としらばくれるに違いない。実は種村さんが「アリアドネーの子ら」を書いた83年末、彼と新橋の中華料理屋で酒を酌み交わした、それも一度ならずである。その折に「異形もひとつの形だし、血もある種の風土だからね」と聞かされた。野溝さんが住んでいたのは新橋の第一ホテル、中華料理屋のすぐ傍だった。そのホテルへは矢川さんに連れられて何度か行ったことがある。


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2008年05月30日 12:06に投稿された記事のページです。

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