「わが恋は 人とる沼の 花菖蒲 泉鏡花 意味」での検索が一昨日あった。この句の意味を検索したところでなにも出てきはしない。検索するのなら、それは自らのこころの内側である。索引で語を検索できても、文学は検索できない。なぜなら、文学とは文学するこころであって、情報ではないからである。ウェブサイトに文学にまつわる情報は顛がっているかもしれないが、文学とはついにウェブサイトとは無縁である。
ここで云う「人とる」は字義通りであろうが、それでは面白くない。されば、「人とる」とは人のこころを捕るもしくは奪うの意として読み解きたくなる。それでなくとも、鏡花の俳句は鏡花の散文世界と切実に響きあっている。ボードレールのいうコレスポンダンスであろうか。従って、解釈は読み手によっていかようにも変化する、もしくは伸縮自在に読みうるところに俳句の俳句たる所以がある。
「とる」には芸者や娼妓が客を迎えて勤めるの意もあり、いざないみちびくの意も含まれる。私などはいっそ人を危めるの意と取りたい。初夏、沼に咲く大輪の花菖蒲が人を殺める、恋心とはそのようなものである。こうなれば、鏡花の俳句のなかでもとびきり危険であり怖い俳句のひとつとなろうか。鏡花の句については、かつてですぺら掲示板1で書いたような記憶がある。