レイアウトが崩れる方・右メニューが表示されない方: >>シンプル・レイアウトへ

« 煙特集 | メイン | キルケニー未入荷 »

「消え去ったアルベルチーヌ」   一考   

 

 先週の金曜日、駒井さんが来店。高遠弘美さんのプルースト「消え去ったアルベルチーヌ」の談議に終始した。のっけから細かいはなしで恐縮だが、グラッセ版をテキストに用いたため、著作権を取得しての翻訳となった。こういう場合はフランス側と翻訳者とのあいだで印税は折半となる。にもかかわらず、翻訳者に支払われる印税は八パーセント。フランス側へ支払われる印税は光文社持ちとなった。この一点をもってしても、彼の本書にかかわる姿勢のおよそが察知される。
 駒井さんは云う。ウーロン茶やトロピカルなど、酎ハイが持て囃される世の中にあって、かような生一本こそが私の造りたかった書物である。また、当企画を通すにいかばかりの苦労があったか、最終校では丸二日の徹夜を余儀なくされた等々、はなしは深更を通り過ぎて朝明けにおよんだ。
 彼が手掛ける「光文社古典新訳文庫」は売れている。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は通算で八十万部を超えてまだ躍進中である。長く翻訳書の売れ行きは低迷していたが、それに「新訳」との起爆剤でもって彼は応じた。聞くところによると、「消え去ったアルベルチーヌ」はドストエフスキーのそれにつぐ売れ行きだそうである。慶賀すべきことである。

 プルーストの文体は流麗である。さればこそ、文体に酔うことが可能な作品なのである。にもかかわらず、酔わせるプルーストはどこにもなかった。「失われた時を求めて」に幾度となく挑戦し、その度に敗退させられたのである。「二〇世紀の新しい文学」とはかくまで難解であり、読みづらいものなのかというのが私の偽らざる感想であった。これはプルーストに限らない、ジャン・ジュネにしてからが読むに忍耐が必要となる。原作者はきっとこのようなことを言いたいに違いない、との想像力を欠いては一頁すら読み進められないのである。
 先だって、「翻訳にあっては日本語の能力以前にフランス語の能力が問われる。翻訳はフランス語からの類比推理であって、いくら日本語に精通していてもそれだけでどうこうなるものではない。フランス語による思考回路を持ってはじめて馥郁たる日本語への置換が可能になる。そのような能力を有し、和文にも堪能したひとと申せば、高遠弘美を除いて他にはあるまい」と書いた。今般の高遠さんの「消え去ったアルベルチーヌ」は実に新訳を通り越して本邦初のプルーストの翻訳であった。
 読み進むうちに、高遠さんに全訳の意志ありと確信した。その旨を駒井さんに伝えたところ、覚悟ありとの明解かつ意味深い応えが返ってきた。プルーストは高遠さんの生涯の伴侶として相応しい。おそらく十五、六巻になるであろうことは必至。ここは一番、奮起していただきたく思う。

 朝まで酒を酌み交わしたと前述した。駒井さんへ次なる書冊のリクエストを繰り返し述べた。彼にわが国の翻訳の歴史を書き換えていただきたいからに他ならない。


←次の記事
「キルケニー未入荷」 
前の記事→
 「煙特集」

ですぺら掲示板2.0トップページへ戻る

このページについて...

2008年05月27日 16:24に投稿された記事のページです。

次の記事←
キルケニー未入荷

前の記事→
煙特集

他にも
  • メインページ
  • アーカイブページ

  • も見てください。

    アーカイブ

    ケータイで見るなら...


    Google
    別ウィンドウ(orタブ)開きます。

    牛込櫻会館(掲示板1.0他)内
    ですぺらHP(掲示板2.0他)内
    Powered by
    Movable Type 3.34