ですぺらの先代、智佳の客がふたり連れで来られた。この辺りに僕の画が掛かってい、ボトルも二本入れていたのだが、それはどこへ行ったのかと訊ねる。知らないと応えると、店の改装は誰がやったのか、改装した本人なら知らない筈がない、と返す。バックバーの中央部を指して、ここにあったと宣われる。さぞかし値の張るボトルだったに違いない。まるで私が猫糞を決めこんだようである。ずらっと並ぶマッカランの後方から件のボトルがいまにも現れそうな雰囲気だった。
はなしの内容からひとりは絵描きと覚しい。その執着ぶりから推して高名な絵師に違いなかろう。店内に掛けられた雪岱には一顧だにしない。僕の絵は、僕の絵が、との仰せであった。聞き及ぶところでは智佳のママは亡くなり、二年前の十一月に店は閉められた。閉店に先立つ半年前に臥せったとも聞く。一月に一回でもそれを常連とは言わない。いわんや、一年半の年月を経れば馴染みですらない。愛着があり、思い出深い飲み屋だったと聞かされたが、それなら猶のこと日参すべきでなかったか。飲みしろとは酒の代金ではなく、そのスペースに払われる金数をいう、いわば所場代である。
一月ほど前にも同様の客が来られたが、こちらは律儀なひとでウィスキーを二杯飲まれた。二人連れは絵もボトルもないのを確認されるとそのまま座りもせずに帰られた。飲み屋には付きものの一齣。