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選民意識   一考   

 

 諸経費節減のため、新聞は打ち切った。それ故、Kさんがたまに持参なさる東京新聞に目を通すのみである。その東京新聞の俳句月評へ宗田安正さんが書いておられる。

 一九八〇年代に始った俳句大衆化は、江里昭彦によれば九〇年代に「情緒安定産業としての俳句」に変質した・・・
 いずれにしても、大衆化を起点に、俳句は表現する俳句から享受する俳句、癒し合いの俳句になる。新しい表現運動はなくなり、総合誌も結社誌も数は殖えたが主張がなく、みな等しなみになってゆく。こうした状況ではかつてのように俳句をリードした総合誌の成立のしようはなく、大衆の要望に応えて俳句上達法の講座まがいの記事と、きまった俳人たちのお手本的作品の展示場になりがち。

 俳句を文芸に置き換えてなんの不具合もなく、宗田さんらしい気配りの行き届いた文章である。以下は宗田さんが著されたエッセイに託つけての私の身勝手なおしゃべりである。
 大衆が先天的に決定能力や統制力を欠き、非合理的、情動的な存在であって愚民とほぼ同義語として解釈されていた時代ならことは単純だった。大衆に選民意識を抱かせるのがファシズムやナチズムの常套手段であって、みな等しなみに選ばれた少数者との意識を抱いて世はうまく収まっていた。
 ところで、選民意識を持たない大衆というものは考えにくい。言い換えれば、大衆という意識を持った個に私はお目に掛かったことがほとんどないのである。平等がもたらす自信について前項で書いたが、個と大衆との概念をひとは器用に遣い分けている。それをいいとも悪いとも思わないが、ただ、過剰なまでの自信や選民意識には疑問を呈したくなる。
 マジョリティがさらなるマジョリティに対していかに苛酷になるかは歴史が証明している。マイノリティとマジョリティは常に入れ子構造になってい、決して対立概念にはなり得ない。この「なり」への偏見や差別と同種の情動が大衆を支え、さらには自律的組織に結集するエネルギーの源泉ともなっている。それは大衆が内包する負の部分である。
 ネットの発達によって、大衆は等しなみに表現者としての選民意識を持つに至った。大衆意識、言い換えれば「孤独な群衆」意識を持たないのが大衆の大衆たる所以であって、大衆は公衆と峻別されなければならないが、ここでミルズとマルクスの大衆の意味づけの違いを論じる気はまったくない。ただ、マルクス以降、大衆を没個性的で受動的な操作の対象として捉えるのは不可能になった。
 わが国に限らないが、文芸はヒエラルヒー的に秩序づけられて維持、発展してきた。その職能的な序列を棚に上げての短歌、連歌、俳句など、私にとっては笑止千万である。かつて与謝野晶子や日夏耿之介は文芸を大衆の手に取り戻そうとして血塗れになった。そしていま大事は、大衆という意識を持った個に文芸を戻すことにある。
 俳句が癒し合いの俳句になって構わないと私は思う。それで俳句が自滅へと至るのであれば、それは俳句の責任であって大衆の責任ではない。大衆は歴史を創造する主体者そのものである。大衆を愚民視する危険をこそひとは慎重に避けなければならない。


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2007年09月12日 12:18に投稿された記事のページです。

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