車の運転技術を注意されて怒るひとがいる、怒らないまでも大概のひとは不機嫌になる。その理由が解らなかったのだが、段位のなさがその理由だと気付かされた。
水を撒いた路面やアイスバーンでのスピン、高速道路でのパンク、砂利道でのパニックブレーキ、高速で峠を駆け抜けるためのアクセルとブレーキを同時に踏む技術や後輪を滑らせるドリフト走法等々、プロドライバーからいまなお様々な技術を学びつづけている。
事故を起こしたときは免許は返上するのが当たり前、それでなくても車は兇器である。だからこそ自分が乗る車の性能、すなわち走る、曲がる、止まるの限界点を熟知しなければならない。免許証は単に車に乗っても構わないとの許可証であって、運転技術に対する免許ではない。その消息は文学であろうが人生であろうが同じである。文学の免許証は各種文学賞に相当するのだろうが、受賞は作家を名宣っても構わないとの許可証であって、文章技術や作法や内容に関する免許ではない。 なにを試みてもひとは終生素人、不機嫌になっている暇などないと思う。
段位が客観的だとは思わないし必要だとも思わない。しかし、基準がないと平等となり、平等であればこそみな等しなみに自信を持つに至る。この自信がひとを狂わせる。たれがしの文章が結構だとか、なにがしの翻訳が旨いとかいうはなしを聞かされるが一度として納得したことはない。むしろ意見を異にするばかりである。
「抽象性」で「書物を読んで得るものなど、決定が各人にゆだねられている主観的確率を一歩も出るものでない。読書家はその蓋然性に賭けるしかないのである」を再度引用する。文章を著すときにはそのプロバビリティーを逆算することになる。逆算とはいっても、主観的確率に平均値などあろうはずがない。それどころか、個々の読み手の能力の隔たりには想像を絶するものがある。と書いた。
いまなお学びつづけているのは運転技術にとどまらない。そしてその手法は種村さんから文学を教わったのと同一のものである。もし不機嫌や不快感をあとに残したとしたら、間違いなく種村さんと殺し合いになっていた。