煙草銭が食費を超えてしまった。そこで津原さんの意見を採り入れてパイプ煙草に切り換えた。十代の頃に使っていたパイプを探し出して利用、コンパニオンは某書店のKさんからのプレゼントになる。しかし四十年ぶりなので手持ちの知識が古すぎて役に立たない。従って葉も津原さんにご教示いただき、ボルクムリーフのモルトウィスキーを入手した。入手であって購ったのでない、こちらもKさんからの贈り物である。
バーボンウィスキーの薔薇の花の香やヴァージニアやバーレー葉の軽いバニラ香は望むところだが、メープルシロップ、砂糖水、ラム、蜂蜜等の甘味成分の強いフレーバードやスウィートアロマの類いは昔から好みでない。約七十種類のパイプ煙草の勉強がこれからはじまる。問題は販売店で、池袋の東武か赤羽もしくは高田馬場の煙草店まで赴かなければならない。成増が近いのだが、そちらにはチェリーやチョコレート等の甘味成分の強いものしか置いてなかった。さきほどバイクで出掛けたのだが、ニューヨーク五番街で有名な「ナットシャーマン」のシガレットの他、買い物はなかった。
パイプ煙草は口腔喫煙だが、私は紙巻き同様すべてを肺へ吸い込む。従って、一回の葉の使用量が少ない。それ故、ボウルの高さを低くしたスクワットベントのようなパイプが欲しくなった。店が落ち着けばオークションで中古品を探そうと思っている。
葉は枯葉でありひとは枯骨である、共に火をつけると灰になる。煙草の存在は乾き切った諸行無常を示唆している。そして諸行無常は消滅への詠嘆であってはならない。「つくられたもの」と「つくられないもの」とを峻別し、無常の構造をより精緻に理論的に考察しなければならない。パイプへの考察といえば、ボズウェルやモルナアルを思い浮かべる。モルナアルはオー・ヘンリーにも似た辛口の作家である。そして私などは鈴木善太郎の「暗示」を連想する。しかし、そうしたはなしは若いひとに譲るとしよう、私の歳になると煙にむせるのが関の山である。