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たけのこ族   一考   

 

 「舌禍の一群」で「ひととの出遇いや読書が持って生れた稟質の変更改竄を余儀なくさせるならともかく、拾い得た知識を自らの属性と曲解し、それを出汁に友と称する悉に異しがるべきものを聚めて悦に入るなど以ての外である」と書いた。
 稟質の変更改竄を余儀なくさせることに於いて友も書物も同質である、されば稟質の変更改竄を余儀なくさせない友や書物はなんなのか。それらを私は筍と称している。雨後の筍という言葉があるように、のべつ幕無しに世に顕れる。堀り立て、もぎたてなら柔らかく、一塩でおいしく頂戴できるが、二、三日で堅くなって煮ても焼いても喰えなくなる。孟宗であれ、真竹であれ、淡竹であれ、その消息は同じである。
 一塩でおいしく頂戴できるさま、言い換えれば柔軟さをいかにして持続させるか、そこが思案の為所、勘所である。思案の案の字が百貫するとは毛吹草だが、安易にものを書いてはいけないとの戒めであろう。
 りきさんが呼応なさっているが、書くという行為を考えるのではなく、書くという行為そのものを著せば良いのである。要するに、自分の考えそのものを書くしかない。「書けないという今の状況」「書かねばなるまいという気負い」等々、なんでもよろしいが、どうして対象となる作家が必要なのか。著す対象はいかように推移したところで自意識でしかない。××○○に託つけて、ひとは過剰な自意識と闘い、抗い、「試行錯誤」し、底の見えない渦に巻き込まれて行く。宇野さんが書かれたベールィ、ゴンブロヴィッチ、クライスト、ムージル、カフカ、リスペクトール、ペソア、メルヴィル、ジェイムズ、シンガー、ベケット、アルトー、ジュネ、ドゥルーズなどは皆そうではないか。
 書物でも友でもよい、稟質の変更改竄を余儀なくさせる対象と出遇ったときは喰らいついて離さないことである。その対象こそが自意識の鏡であり投影であり分身なのだから。対象とは客体ではなく、主体そのものでないだろうか。


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2007年06月06日 05:33に投稿された記事のページです。

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