ですぺらの営業日は今日と明日の二日になった。
店は暇なのだが、この一週間、毎夜酒のはなしができたのは嬉しい。 閉店間際になってやっとショットバーの雰囲気を取り戻したようである。
連日、掲示板できつい書き込みを繰り返したが、あそこまで書かねばならなかったことを悲しく思う。私はコレクターではないし、愛書家でも蔵書家でも読書家でもない。書物は大事だが、それは自らの「思考の脈絡」を確認し、新たなディメンションを摸索するための道具としてである。結果について論議するのは望むところだが、こんな道具を持っている、あんな道具を持っているとの不調法なはなしに加わる心ぐみはまったくなかった。
書物を酒や烟草に託してのアナロジーに充ちたはなしならどなたであろうが参加できる。そうした言葉のゲームや屈折した会話を楽しむ術は心得ている。しかし、ストレートな生(なま)なはなしは偏狭なショーヴィニスムやジンゴイズムを生む。
かつて「オブセッション」で「会話や共感の共有の好例は中世の一味神水に求められる。行動を同じくするひとたちは、お互いのこころの結びつきを確認し合わなければならない。同じ釜の飯を喰うとか、婚礼の三三九度、または献杯や返杯などの喫飯から掛け声や手締めのようなセレモニーに至るまで、集団としての紐帯を強める儀式の材料には事欠かない。しかし、そこには部外者を『劣った者』と見る差別観や強者の奢りがちらついている。儀式の裏面には常にパターナリズムが巣くっているのである」と書いた。パターナリズムに属するものは例え相手が愛書家であろうが蔵書家であろうが読書家であろうが、明白に私が闘わねばならない敵だと思っている。
追記
上戸下戸に差別を設けるつもりはまったくない。そして下戸であろうとも店への貢献はできる。金を使おうと思えばいかようにも可能である。私が嫌なのはですぺらが談話室として扱われることにある。それは上記パターナリズムと重なり合う。
このような直截な書き込みを除いて、ですぺら掲示板は行き当たりばったりに書かれてはいない。「その配列、構成によって自分だけにわかっている思考の脈絡の一斑を示」そうと努力している。これまでご理解を賜った、それこそ見知らぬ「少数者」に感謝している。