ある時は口汚く罵りあい、笑ひ罵り、誉め喧る、横須賀さんとの一年間は騒擾囂然たる日々だった。一方で互いの肉体を慈しみ、悲しみあい、そして抱き合った。友とはなんなのか、友とはいかにあるべきものなのか。ですぺらはそのための検証の場と化していた。
「あなたはひとの弱味に付け入り、いかに相手を傷つけるかに心血を注ぎました。でも、それを加虐趣味と解釈するのは間違いです。『傷つけられて怒るのは結構だが、怒りに身を震わす自分をあんたは信じているのかね、無邪気だねえ』『第一、言葉で傷つくなんて本当かねえ、もう少し自分に正直になれば』との独り言が聞こえてきます。それこそ怒っているのはあなたなのであって『人なんて取るに足らない存在なんだよ』ということを知らしめたい。否、知らしめる必要すらなくて、当たり前のことを当たり前として認識した人とのみ言葉の逢瀬を楽しみたい、ひとの言葉で傷つくような嘘つきの輩に興味はない、というのがあなたの真意であり、曲げることのできない原理原則だったのです」と初稿で著した。
私も十代の頃からプロの書き手を相手に諠譁を繰り返してきた。従って、横須賀さんの「言葉で傷つくなんて本当かねえ」との言葉の意味するところはよく分かる。しかし、時代は変わったように思う。いまでは論争はおろか、言葉のキャッチボールすらかなわない平和な時代になった。同時に人心は脆弱になり、キャパシティもなくなってゆく。
前項の「書物を読んで得るものなど、決定が各人にゆだねられている主観的確率を一歩も出るものでない」筈なのだが、そうした命題に背を向けて同好の士として群れたがる。度し難い精神の弛みと怠慢が世を覆っている。もし、その群れに対するスペースの提供をですぺらが担ったとするなら、私はとんでもない大罪を犯したことになる。
「詩人自身がそれらの詩篇を詩集の形で世に表す場合には、その配列、構成によって自分だけにわかっている思考の脈絡の一斑を示すべきだ、と思っています。ボードレールやホイットマンがそうしたように」と相澤啓三さんは著す。彼が好んで用いる「思考の脈絡」を読み解く読者がいまの日本に何人いるのだろうか。二人か三人か、おそらくはその程度の数だろうと思う。理解の及び難さを嘆かしむるのであればともかく、端から理解なんぞ抛げだしたひとびとが読書家を気取っている。ひとつひとつの詩集それぞれに籠められた構成意図を読み解けとは言わない。いとせめて、個々の詩に穿たれた思考の断片だけでも読み解いていただきたいと思う。当掲示板にあっても、その思いは同じである。