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無頼   一考   

 

 暴れているのではなく、戯れているだけです。どなたさまに限らずダシに使う癖があって、まことに相済みません。
 先日、掲示板を続けたいと書くなり、噛みつきメールが送られてきました。箱根から西には小難しい御仁がいらっしゃるようです。そこで註をひとこと。
 続けることに意味があるとか意義があると言うのは暴論です。なにごとによらず、意味や意義の存在をそこはかと示唆はできても、証明などかなう筈がないからです。五十歩譲って、続けることに大事があると仮定したところで、ならば人生にあっては長命が大それたことになり、さらには輪廻転生を編み出したひとは真髄、秘伝の極致ということになりましょう。
 続けたいとの冀求を意味づけと受け取るのは曲解です。それと、書き込みが詰るか詰らないかを判断するのは他者であって私の知ったことではない。ただ私には私の考えがあって、こうして書いているあいだだけは曲がりなりに自分が在るように思い、書き終えると同時に自分は消尽してしまうのではないかと不安に駈られる。不安というのは難儀なもので、動悸や発汗などの身体的徴候を伴うにもかかわらず、その危機感は漠とした気分でしかない。因果関係が明瞭なかたちで呈れる惧れとはまるで異なる。
 昔、シェストフと共にバンジャミン・クレミウの「不安と再建」がよく読まれた。戦後の1918年から1930年を超現実主義と逃避の期間とし、人格分解の時代、不安の時代と位置付けていた。要は花田清輝式二項対立の先駆を担うがごとき評論集だった。
 始源と終末を繰り返す歴史のなかにあって、第一次世界大戦であれ、第二次世界大戦であれ、戦後というのはひとを不安にさせる。櫻井さんのいう単孤無頼の独人も本を正せば不安がもたらす人格分解にある。よるべを喪えばパーソナリティーそれ自体が体を成さなくなる。振り返る過去がなければ感傷も追憶もなにもない。「メモリに頼らず、今を生き」れば郷愁も愛執もなにもない。自らの特性を見失ったとき、個がいかに彷徨い、いかように徘徊するのか。あろう筈もないぎりぎり最小限の閾値を求めて、どんどん先へ歩を進めるしかないのである。


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2007年03月30日 05:59に投稿された記事のページです。

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