神戸の友人Nさんは学生向けのアパートや下宿を営んでいる。震災の日、多くの店子が崩壊した建物の下敷きになって身動きできなくなった。友人は店子と声を掛け合うも重機はなく、自衛隊も来ない。店子に止まらない、あちらこちらから助けてとの声が聞こえる。彼は素手で瓦礫と闘いはじめる。間もなくほうぼうから火の手が上がり近づいてくる。「助けて」との声が「熱いよ」に変わり、やがて沈黙へと置き換えられてゆく。爪が剥がれ、手を血だらけにした友人は泣きながら彳む。
親しくしていた印刷会社の事務員は両耳にイヤホーンをしたままの状態で押し潰された。他にもいくらでもあるが、これらは友人のことゆえ書くことができる。死者6,434名、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、目の前で6,434名の生活が中断され、命が絶たれた。
神戸の震災については何度か書いた。しかし、具体的な事例は保留したままである。おそらく書くことはあるまい。上記友人にしても神戸新聞社の取材記事であって、彼自身は語ろうとしない。その気持は痛いほど分かる。ひとには触れたくないことだってある。
今なお、運転していて不意に泣き出すことがある。震災当日の夜、長田であったことを、灘であったことを思い出すのである。震災は不条理である。書くも書かないも自由だが、わたしに不条理は書かれない。のっけから意義もなく意味もなく、筋が通らず道理が立たない。条理を尽くして絶望や暴力を描くのは可能かもしれないが、そこから生じるのは二律背反のみ。
追記
当然のことだが、わたし個人について書いている。シニシズムの立場で首尾一貫できないのは分かっている、しかし犬儒派をわたしは信奉する。