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「朝が来ると信じているのだね」   一考   

 

 死ねと云われれば死ぬなどというのは通常は恋情の表明なのだが、玲さんにそのような気持の持ち合わせはなにもない。にも関らず、あの文言がぷいとでてくるところが玲さんらしい。およそ不用意で天真爛漫である。
 玲さんから「Sai」第三号と「朝が来ると信じているのだね」の二冊が贈られてきた。「Sai」の方は高島祐さんの短歌と玲さんの評論に感心させられた。ただ、ここでは玲さんについて書くのが筋だろうから高島さんについては触れない。
 「朝が来ると信じているのだね」は玲さんの個人詩集であって、所収の「愛すべき孤独」については2008年12月19日にふれているので繰り返さない。ただ、「愛すべき孤独」は用語に若干の無駄があって、リリカルに流れている。しかし、それを乗り越えるだけの緊迫感を内包している。
 同詩集には「永遠」「愛」「うつくしい」「やさしい」「哀しみ」「かなしい」「さみしい」といった不用意な言葉が汪溢している。そうした言葉はもし遣うなら効果的に用いなければならない。思い付きや感情移入のオンパレードでは詩にならない。ごく一部を除いて消化不良をきたした習作集といえようか。
 それにしても、推敲が必要である。推敲が繰り返されればもう少し風通しがよくなる。おそらく、天真爛漫などという言葉を彼女は嫌がるだろうが、わたしの目にはそうとしか映らない。可愛いといえば可愛いのだが、いまさらセンチメンタルな少女詩を書く歳ではあるまい。言葉の概念に対する疑念が淡く、イマジネーションが類型化しているところに問題がある。
 「可能性が一分にせよ、間違いなく産声を上げている」と書いた。詩としておよその形は成り立っている。想像力の大胆さと奔放さが今後の課題となる。それにしても、作品は生みっぱなしでは困る。納得いくまで書き直すべきである。いわんや書冊に纏めるときは二重三重の慎重さが求められる。
 その慎重さと重なるが、彼女にとって大きな問題は、彼女の内部に読者の目線が欠落している点である。書き手と読み手のバランスが取られて、はじめて他者の目に耐える作品が生まれる。それを邪魔しているのはおそらく彼女のナルシシズムだと思うのだが、彼女は否定するだろう。いささか謎めくが、恥じと外聞をかなぐり捨てた、言い換えれば素顔でなく仮面を被った玲さんと出遇いたいと冀求している。
 人は無数の賓辞を内包してい、ひとつの賓辞は他の賓辞を平気で裏切る。彼女の場合は他人の誤解でなく、自分自身の誤解を懼れている。誤解を懼れていると、いつまで経っても作品は独立しない。妄言多謝。


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2010年07月10日 20:26に投稿された記事のページです。

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