当掲示板で翻訳以外の小説を頌めたことはほとんどないと思います。翻訳にあってすら、原作についてあれこれ書くのは差し出口になるらしく、今後言祝ぐのは短詩系に限ろうかと思っております。翻訳とは純粋に技術的な問題もしくは言葉に対するセンスの問題です。ところが、わが国にあっては、ブルトンやバタイユが訳者に乗り移るらしく、取り憑かれたように向きになる方ばかりが目につきます。物の怪や悪霊はそちらの筋に任せるとして、そこまでして文学という鵺にしがみついていたいのかと呆れております。
短詩系は短歌の歴史は詩よりも古いなどという能転気なお題目を唱える莫迦が過多を占めます。太初に定型ありき、などともし本気で思っているのなら、無知曚昧も極まれりというところでしょう。ところが、道理にくらい筈の人が著す作品がたまさかきらっと輝くものを内包しているときがあります。もっとも、それは輝きを示唆した人の栄に属することで、原作者が莫迦であることはなんら変わりません。原作者が与り知らぬところにまでイマジネーションの羽先を延ばすのは徒か悪意、いずれにせよ、それから先は読み手の世界のはなしです。
高見順が魂ではなく胃だと看破したように、おそらく文学は言葉の問題でなく、自らの体内に属する問題だと思うのです。さしずめわたしなら魂でなく腎臓だと叫ばなくてはなりませんが、ことほど左様に文学と肉体は不可分のものなのです。そしてそれらを結ぶカラザのようなものをわたしは情念と名付けています。
ストーリーがあって、主人公がいて、情景描写があって、心理的起伏があって、時間軸が絡み合ってなどという作品の表層にわたしはなんらの興味も持たないのです。興味があるのは、なぜ書くのか、なぜ表現するのか、なにに向かって書くのかといった書き手の根拠のようなものなのです。言い換えれば、充足している人、不満を抱いていない人の書き物にはいささかの興味もありません。不満の捌け口(情念)が顕れているとお思いでしたらお送り下さい。
きっとわたしより、読み手としてもっと相応しい方がいらっしゃると思います。どうかよろしく。
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