新陳代謝の意は「新しい物が古い物にとってかわること」とある。そしてひとは二百万年の間、代謝を繰り返してきた。代謝それ自体に意味があるのかもしれないが、個々のものとしてのひとにさしたる意味があるとは思われない。ひとに限らないが、生あるものはことごとくが代謝される。永遠の命なるものは存在しない。このことはひとに悲しみを齎す、失意といってもよい。
自死を薦めたことは一度もないが、存在やその本質である人生になんら意味は生じないというようなことを書き継いできた。もちろん、わたしはわたしの信じるところを綴っているだけで、他人がそれにどう反応しようと知ったことではない。ただ、わたしとお付き合い下さるひとは何等かの黙契乃至は諒解があるはずだと勝手に思っている。
表現や行為には意図、理由、目的、折々の気持ちなど、要するに内容またはメッセージがこめられている。しかしながら、百万遍念仏を唱えようと存在それ自体に意味を与えることはできない。どこまで行こうが末の露、本の雫を一歩もでるものでない。ところが、多くのひとが短詩系文学は分からない、どのような意味なのだろうか、と問う。前述した意図、理由、目的、折々の気持ちなどを素直に受け取ればよいのであって、それ以上の意味を文学に求めてもなにも帰ってこない。
意味のない人生を送っているひとが文学にのみ意味を求めるのはどう解釈すればよいのだろうか。意味のない人生から編み出されるものに、意味なんぞあろう筈もなく、ただ、身にしみて感ずるところがあればそれでよいではないか。詩歌とは感じ取るものであって、意味などという功利を求めるものであってはならない。