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腎不全   一考   

 

 山崎医師が頻繁に訪ねてくださる。血液検査でクレアチニンが7.21、尿素窒素が79.9、クレアチニンの値は昨年が2.9なので、どうしてここまで悪くなったのか理由がわからない。麻酔と抗生物質が使えないので、骨折の手術は見送り。癒すのに正味三箇月(ということは二箇月)かかるそうである。食事も減塩食に切り換えられた。整形外科での入院なるも、内科が優先されることになってしまった。火曜日に腎臓のCTスキャンを撮るが、いずれにせよ来週からは人口透析がはじまる。考えてみれば、尿管バイパスの手術をしたまま十年前に上京、明石の後処理をお願いしたのが松友さんの紹介になる山崎医師である。彼はわたしの死生観を熟知している、それかあらぬか、他人のためにもう少し生き延びてみませんかとの忠告。わたしごときをあと七、八年生かすために山崎さんに辛労をお掛けする。

 人口透析が本格的に行われるようになったのは50年代以降だが、心臓移植がはじめて行われた68年、この度、解散直前の国会で臓器移植法改正A案が可決、成立した。臓器移植が法的に問題になることがわたしには理解できない。移植する側とされる側では問題の立て方がまるで異なる。移植する側には脳死を人の死として認めるかどうかが問われ、移植される側は脳死を人の死とすることが当然となる。どちらの側に立つかで意見は分かれる。ことは深刻でいくら議論したところで結論は出てこない。いわんや倫理、道徳、歴史観にかかわる問題は国会での議論には不向きである。
 「開明性」に闌けたひとは臓器移植におおむね肯定的である。移植のもっとも一般的なものは輸血だが、骨髄や肝臓の一部のように再生されるものもあれば、腎臓や角膜などのように心臓死移植によるものもある。ドナーカードを携帯している方は店のお客さんにもいる。ただ、それが自分の子供のことになるとはなしは複雑である。爪や髪の毛が伸び、心臓が動いている子を死者とは認めがたい。自分のことなら構わないが子供のことだけは、との親のエゴが出てくる。
 医学の発達によって脳幹機能が停止しても生命維持装置とくに人工呼吸器の発達により呼吸が継続され、結果として心臓機能も維持される。戦前なら自発呼吸の消失がそのまま死を意味していたが、そこへ脳死という概念が新たに生れたのである。おそらく、今後のさらなる医療技術の発達は脳死概念をすら変えてゆくものと思われる。従ってエゴのひとことで片付けられる問題ではあるまい。
 だからこそ、移植にあっては臓器を提供する側の承諾がなにより必要となる。今般問われているのは幼児の心臓移植である。大きさの関係で幼児の心臓移植のドナーは幼児に限られる。この難儀に突破口を設けようというのが今回の臓器移植法改正A案である。だがこの場合、問題になるのは前述の承諾であって、そうでなければ移植する側とされる側との類似、反映、置換の関係が成りたたなくなる。そして、それら個別に勘案されるべき問題が法律で一律に規制されるのはなにがあっても反対である。かつて札幌医科大学の心臓移植が社会的に問題となったように、このような場への国家権力の介在はろくな結果をもたらさない。橋本元首相は一時は「行政の責任者は判断すべきでない」と云っていたのだが。
 解決にもなににもならないが、わたしならどうするだろうかと考える。わたしの子供が心臓移植を必要とした場合、冷たいようだが諦めさせる。病すらが人類が内包するひとつの個性ではあるまいか。前項で触れたように、人類の進化の過程では実にさまざまな個性が誕生する。スピノザの必然的存在性は認めないが、わたしは一種の運命論者である。(18日)


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2009年07月22日 21:15に投稿された記事のページです。

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