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とりとめもなく   一考   

 

 ワインが必要なので、近所の酒屋まで歩いていった。例によって跛を引きながらゆっくり歩く。何度もぶつかりそうになりながら無事に用は済ませたが、妙なことに気付いた。回りへの気配りに欠けるのは女性ばかりである。男性は数メートル先からわたしを避けてくださる。ところが女性には避けようとの意志がほとんど見受けられない。若い人ほどそちらが避けて当たり前との風情である。個人差があるので一般論としては成り立たないが、どう考えても女性に分が悪いようである。
 そのようなことを云っていると持てないよ、との声が聞こえてきそうだが、女狂四郎や女龍之介は無用。この手の非情にわたしは興味を抱かない。親しくなれば女人は複雑、時として奇々怪々なまでの情愛を発揮するが、見知らぬ人に対しては突慳貪な応対に終始する。そうした差別意識がなければ異性愛は成立しないのかもしれない。逆に申せば差別意識が失せたとき、それが別れるときなのかもしれない。
 先頃、知己が連れ添いと別れた。以下は憶測である。理由はいろいろあるだろう、暗くしないと眠られない、テレビの音がうるさい、鼾がうるさい、寝相がわるい等々。しかし、別々に寝るようになればふたりのあいだは終わったも同然である。何かが終わったわけだが、それは次の段階に至ったまでのはなしであって、すべてが終わったわけではない。関係自らが新たなディメンションを求めはじめたということなのであろう。
 関係というものは刻々変化してゆく。その変化に個別に対応してゆくのは大事(おおごと)である。例えば同衾にしてからが、朝立ちを利用しなければできるものではない。発奮しようとして可能なのは若いあいだだけである。もっとも、朝立ちが朝とは限らない。生活のテンポがひとひと異なるからである。違う生活を互いが持っているとき、その契機が改善されることは永遠にない。だからこそのディメンションである。恋愛に現場があるとして、その現場を再構築してゆくのだからなおさら大仕事になる。
 人はそうした繰り返しのなかから自らに相応しい次元解析を学習してゆく。別に物理法則について述べたいのではない。学習とは申せ、結果は逃げられたか、逃げ出したかの違いだけで、大して差違があるわけではない。問題は互いが逃げ出さなかった場合にどうするかである。ここではなしは頭に戻る。

 「この世に帰るということの厭わしき」と云ったのが誰だったか忘れたが、ひとは歳と共に風であり、通行人であることを忘れてゆく。詰らない人生と知りつつ、しがみつくようになる。


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2009年07月09日 21:27に投稿された記事のページです。

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