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花の悲鳴   一考   

 

 このところヒストリーチャンネルをよく見る。先日は「新シルクロード」と「人間の戦場」の再放送を見た。前者はさまざまな民族が当たり前のように共存していたトルファンの街を民族の十字路ととらえ、後者は1948年5月のイスラエル建国以降に滅ぼされた418の村々の現状を描く。パレスチナを過去に存在し逃げ出した民族としてとらえるユダヤと歴史になったことを振り返るだけの、謂わばシオニズムとシニシズムとの残酷なまでの対比が執拗に描かれる。
 当掲示板の「はじまりです」にあって「世界二十八箇国三十二地域で殺戮が行われているなかにあって、何がいかように「めでたい」のか迂生には皆目見当がつきません」と書いたが、その殺戮のど真ん中にパレスチナの問題があるのはいうまでもない。
 かつて阪神大震災の折、崩れかけた家で父が「どこへも行かない、死ぬならここで」と依怙地になっていたことを想い起こす。父は新潟生まれで育ったのは東京、そして四度の召集を受け、満州で青年期を過ごした。その父が神戸に寄せる思いがわたしにはまったく理解できなかった。「人間の戦場」に於ける双方の土地への執着と同質のものがここにはある。土地に限らない、ことば、民族、国家、宗教、文化、歴史、伝統、そのいづれをとっても同じである。わたしはそこに精神の老いを視る。
 イギリスを相手に展開した爆弾闘争を祖国の解放と位置づけ、パレスチナのそれをテロと断じるイスラエル。解放かテロか、抵抗かテロか、そうした相対的な問題に深入りする気は毛頭ない。ただ、双方が繰り返す報復の連鎖に狂気を覚える。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じ砂漠が生んだ一神教である。同じ宗教の解釈の違いが血で血を洗うことになるのなら宗教などないほうがよいに決まっている。


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2009年04月15日 19:40に投稿された記事のページです。

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