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恋の奴隷   一考   

 

 一昨夜Tさんと担当編輯者が来られて六月末に某書が出版の予定だと聞かされた。期待している書物である。そこで別のTさんにサイン会もしくは講演会を依頼したところ断わられてしまった。これには理由がある、かつて金子國義さんのサイン会をお願いした折に不始末があったからである。同じトラブルを繰り返したくない気持はよく分かるが、どうやらわたしが持ち込むはなしは懲り懲りというのが実体のようである。ところでこの実体、実相であれ、実態であれ、実状であれ、実情であっても大差ないが、要は実体を持たぬわたしに対する見事な切り返しになっている。
 料理人、編輯者、飲み屋の主人とさまざまな職業を経巡ってきたが、いまだこれが実体というものにお目に掛かったことがない。「お目に掛かったことがない」などと書けば、お目に掛かるべき実体が別途設けられているようにも思われる。しかし、どこを探してもそのようなものは見当たらない。なぜかというに、わたしは真性のちゃらんぽらんだからである。
 一昨夜、山本六三から奥村チヨ(わたしとは同年同月生れ、弘田三枝子とは生年月日が同じ)のはなしになって「恋の奴隷」を合唱、大笑いになった。時代は一億総白痴化からニッポン無責任時代へと突入、植木等をあきつかみとして育ったわたしにとって「右と言われりゃ右むいて とても幸せ 影のようについてゆくわ 気にしないでね 好きな時に思い出してね あなた好みのあなた好みの 女になりたい」は国歌にも等しい。
 わたしにとって最も縁がないのは書物を中心とした教養主義的な世界観である。教養は人間の想像力や思考力を低下させる。さらに、教養などといわれると実相観入を想い起こす。わたしならひっくり返して皮相観入に戻したくなる。「実相に徹するをもって短歌写生道の要諦とする」といった自己本位性をわたしは浅薄と云いたい。皮相と実相という茂吉が示唆する二項対立には悲壮なまでの覚悟とナルシシズムが漂う。実体を現象認識のためのカテゴリーに過ぎないと看破したのはカントだが、事物の根底から実体が逃げ出して久しくなる。世の文学者はいつになったらそのことに気付くのであろうか。
 それでなくとも、対象概念と属性概念はしばしば入れ子構造をなす。というよりは言い回し、文脈、論理構造によってどこへでも好きなところへ飛んでゆく。「飛んでゆく」と「飛ばすのが可能である」では意味合いが随分と違ってくる。この違いは石川淳と漱石のそれにも似ている。わたしは当然、石川淳の側に立つ。


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2009年04月03日 19:37に投稿された記事のページです。

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