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御礼   一考   

 

 金沢の「かわべ」主人河崎徹、「亀鳴屋」社主勝井隆則両氏より大包みが到着。イワナ卵の醤油漬け、ニジマス卵の塩漬け、同佃煮、同薫製が送られてきた。早速、昨夜のぼたん鍋の前菜として頂戴した。ぼたん鍋は定員をはみでる盛会で金沢からのお歳暮は消えてなくなった。私事で恐縮だが、十二月の家賃がやっと払えて安堵している。これも河崎、勝井両氏の厚誼のたまものと御礼申し上げる。
 勝井さん曰く、好不況の(渦外)の地べたを這う身なれば、せめて不況の渦中に仲間入り致したく、当方もデストラの日が近づいております、と。destra(右手)ではなくdestructionの略だが、亀鳴屋の場合は滅亡、破滅よりですぺら同様駆除の方が当たっているように思う。害毒にしかならぬ書物を飽きもせずに上梓している彼はさしずめ害虫そのものであろうか。ちなみに、近著は「高祖保書簡集 井上多喜三郎宛」外村 彰編、「續人譽幻談 水の底」伊藤人譽著、「伊藤茂次詩集 ないしょ」(売り切れ)である。ここはひとつ、舟木伝内に倣って陰の備忘録「奈落の栞」をお書きいただきたいと願っている。
 河崎さんの「イワナ売ります」は既に四十回を数える。「大風呂敷」もいよよ研がれて舌鋒鋭く、「勝ってくるぞと勇ましく…」では金メダルに於ける運の大事を説き、その「運(好運)は誰れにでも等しくある」と結論づける。当然、好運であろうが悪運であろうが消息は同じである。思うに、金メダルであっても何でも構わないが、そのようなもので感動するような軟な人心への警告と私は読んだ。前回の三十九回は「ふるさとの山に向かいて金はナシ(この方が面白い)」で閉じられている。ずっと遡って第二十七回では俳句が詠まれている。その「賢者と愚者」と題された項では歴史と経験を主調に教育について大学紛争についてイジメについて気の向くままに「エラソウな事」が詳述されている。
 哲学するという行為を大学で教えることはできない、大学で教えることができるのは哲学の通史のみ。それは対象が文学であれ歴史であれ同じである。思想の数だけの歴史観があり、日本人の看るアジア史と朝鮮人の、中国人の看るアジア史はまったく異なる。客観的な歴史などと云うものはどこにもなく、独立した日本史などと云うものもどこにもない。あるのは世界史のなかの日本史であり、世界史のなかのアジア史である。さらに踏み込めば歴史観のないところに思想はなく、思想そのものが歴史と云っていえなくはない。
 亀鳴屋がどうして貴重な出版社かと云えば、自身の価値観なり歴史観すなわち世界観の書き直しを余儀なくさせる書物を上梓しているからに他ならない。「イワナ売ります」然り、河崎さんのブログも亀鳴屋の大切な為事の一と私は考えている。文中、河崎さんは「大切なのは歴史に自分は何を学ぶのか(学ばないのか)、この社会で身につけた経験がそれでよかったのか(悪かったのか)をいつも自問自答する事だと思う」と著す。その問いかけは良い悪いと云った二項対立を通り越してさらに深い渦中に個を誘う。河崎さんの遠慮がちな文言は考えるってなに、という自問自答を私に突きつけてやまない。

 齢食えば 見馴れた秋も又よしと
 刈った田に バアチャン一人と赤トンボ
 野菊折り 名知らぬ 墓に添えてみる
 千年も 同じかと思う 秋の暮れ
 見上げれば 耳鳴りだけ 秋の空
 秋だけは 孤独もよしと 一人ごと
 何時からか 秋の花が 好きになり(河崎徹)


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2008年12月15日 23:38に投稿された記事のページです。

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