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赤い雨靴   一考   

 

 笹目さんが九条今日子さんと共に来店、昔話に花が咲いた。こちらでは書かれないことばかりだが、差し障りのないことのみ著す。
 東急百貨店でのタロット展初日、寺山さんが雨のなかを赤い雨靴を履いてこられた。どうして覚えているかといえば、お手伝いいただいた大泉女史も真っ赤なビニールの雨靴を履いていたからである。多量の荷物(タロットカード)に押し潰されて東京駅で立ち往生していた私を、設立間もない牧神社のスタッフが総出で手伝ってくださった。私が二十五歳の折のはなしである。
 寺山さんもタロットの蒐集家で、後年オリジナルのカードを制作された。その彼が一人目の客になろうとは予想だにしていなかった。独得のアクセントで「やあ、元気、儲かっている」が最初の挨拶で、「雨のなかをありがとうございます。儲けるのはこれからです」が私の返事。早朝から爽やかな笑顔で迎えられて、私は嬉しかった。問われるがままにタロットの説明が続いたが、他愛ないひとことひとことに秘められた彼の発想のユニークに笑い転げた。お会いした回数は少ないものの、彼の立ち居振る舞いというか造詣の非凡さ(ここでは詳細は書かない)に常に感心させられた。
 1969年夏の渋谷事件のときも私は現場にいた。アマンドから出てきた唐さんがサイドミラーに映り、車を停めたのがわざわいしたと九条さんからお聞きした。詳細は四谷シモンさんの「人形作家」(講談社現代新書)に譲るが、双方の親分通しは仲が良かったのである。演じたのは間違いなく大立ち回りだが、激怒とか襲撃ではなかったと私は思っている。あの乱闘騒ぎで天井桟敷も状況劇場も一気に全国区へ昇格したと、これは私の冗談である。
 昔は寺山派、唐派と別れていて囂しかった。私のように両方が好きな者にとってはずいぶんと肩身が狭かった。現在では九条さんは李麗仙さんと競馬仲間で、親しくお付き合いなさっている。今度馬で儲けたとき、一緒に飲みに来ましょうと仰有っていた。李さんとは澁澤さんの葬儀以来、お会いしていない。
 亡父は神戸駅前の進駐軍の米軍キャンプで働き、西宮の鳴尾へのベースキャンプ移設に伴って移った。寺山修司の母ハツさんと似た経歴を持っている。そのあたりを話したかったのだが、機会はなかった。中井さんがらみで書くことも多々あるのだが、頭で触れたように、書くことは未だかなわない。ゴシップと受け取られるのが嫌なのである。いつの日か、寺山の俳句と短歌については書きたいと思っている。
 ところで、二代目高橋竹山には寺山修司が彼女のために作詞した「さらば東京行進曲」「歌のわかれ」「せきれい心中」「紅がすり抄」などがある。小室等さんには状況劇場の思い出が深い。嬬恋村の佐々木幹郎さんの山小屋でのコンサートを楽しみにしている。


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2008年07月17日 16:31に投稿された記事のページです。

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