ですぺらへ不良が舞い込んできた。詳細は書かないが、元不良と進行形の不良が来週からしばらくのあいだ一緒に仕事をする。従って、お通しから乾き物は徐々に減らしてゆく予定。ただし、お客の註文を受付けるのはスモークとお好み焼きだけで、他は日替わりの小鉢ものを造る。こちらも現在のところ予定のみ。一緒に仕事をするのは一箇月だけなので、フードの再開というわけではない。滅多にないが、金曜日や土曜日のような忙しいときはお断りすることもあるので、悪しからず。
さて、元不良とは私のことで、未成年の喫煙、酒婬、登校拒否、引き籠もり、薬物乱用、銃刀剣不法所持からはじまって、最後は行き着くところまで行ってしまった。昨今、秋葉原で行き摺り殺人があった。「親が悪い、会社が悪い、社会が悪い」が犯人の捨て台詞だったが、このなかに「自分が悪い」が入っていないのが、現在の自己中心的な世相なのかと思われた。被害者には申し訳ないが、犯人はちょいと拗ねてみせただけであって、彼のような人間を不良とは呼ばない。
私の時代に遣わなれなかった言葉に「自己責任」がある。本来、他者に対する責任転嫁をいましめる言葉なのだが、他者に対して責任を負うべき者の責任回避に利用される危険性がある(例えばイラク日本人人質事件における一部政治家の言動)。この場合、自称ボランティアの側の是非は問わない。
言葉というものは常に相反する意味を内包する。それどころか、「自己責任である限りは何をしても良い」との逆説すら成り立つのである。それ故、誤解が生じ、あらぬ非難を被ることになる。ひとつひとつの言葉の意味ないし定義づけは個々の性格の違いに求められる。私が匿名性を非難する理由はそこにある。
性愛構造同様、不良といっても百人いれば百通りの不良がある。要するに、不良を概括的に扱うことはできない。不良について考えようとすれば、その対象たる個人のなかに深く水準器を沈めるしか手立てはない。これは不良に限らないが。
彼の目は尖がっている。それだけで不良入門としては申し分ないが、目が据わっただけの不良なら世の中に掃いて捨てるほどいる。これから彼を私なりに知らなければならない。思い詰める、身を焦がすといった一途さや餓えと対峙しなければならない。ひとつ気になるのは、他者に対する甘えのようなものが彼にはある。これは不良らしからぬ部分である。生きることにも為事にも恋愛にもなんにも意義なんてものはない、「自分も社会もくそったれ」が不良が持ちうるおそらく唯一の理念であり憲法でないだろうか。生きのびるために「くそったれ」と「まあ、仕方がない」のぎりぎりの攻防がはじまる。例え意義はなくとも、そのための方向性を示唆することは可能である。それが私にできるかどうかはやってみないと分からない。根競べになるが、彼が私にとって久しぶりの友になる可能性だって皆無ではない。不良、これもまた宛先のない小包である。