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自在力   一考   

 

 店に飾った吉岡実さんの詩に「来てみれば秋 ここは落雁の見える 寂しい水の上の光景」がある。飛び立つ鳥ではなく舞い降りる鳥、行き場を喪った苛しいやるせなさがここにはある。先日、落魄と魚卵について書いたが、あれはそっくりそのまま吉岡さんの詩の、そして死のモチーフでもあった。
 かつては大槻鉄男さんを懐うて涙したが、近頃は理由もなく泣き出すことが多くなった。さなくとも夥しい先達を友を喪ってしまった。今や、生き残りを数えるが易くなった。

 ですぺらが再開されてから一日一食が続く。自宅での朝飯か、それを逃すと松屋での牛丼。そもそも料理人の沽券にかかわるとしてファーストフードの店は敬遠していた。抵抗がなくなったのは四国でマクドナルドへ入ってからである。これが滅法旨かったと記憶する。それからあとは雪崩れ式で、沽券などという見体(みてくれ)を構う要はなくなった。赤坂の松屋で牛丼を頬張る横須賀さんを想い起こす。そういえば、彼も一日一食をきまりとしていたようである。もっとも、彼は調法の心得あり。蛸、藻屑蟹、鮟鱇などを買ってきて手料理で持て成すのも屡々だった。
 松山でのファーストフード店初体験は四十路を超えてのはなし。爾来私はみさおを見失うが、これは大きな影響を及ぼした。沽券に限らず、ありとある見てくれからの解放を私にもたらした。見てくれからの解放とはアナロジーの活性化を意味する。
 他人の目に立つような言動や服装、もしくは自己主張の顕れとしての見体、見栄、外見、見かけ、見場、体裁を構う、まるでそれが人の値打ちや品格の証明であるかのように。要するに、大した意味もなくひとは刷り込みに汚染される。そして最大の誤謬は「見られている」との意識である。言い換えれば、ひとは皆「見られてい」そして誰も見ていない、見ているのは自分だけ・・・と言った自意識の検証ではなく、それらを一挙に跳びこえるのがアナロジーである。特定のものになろうとするよりも何ものにでもなりうる、そうした自由を手に入れたのである。これは一種の八方番で自在継手のようなものと思っていただいて不具合はない。
 時として、ひとは秋になり、落雁になり、そして水に成り代わる。この自在力についてはまた。


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2007年11月13日 19:57に投稿された記事のページです。

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