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閉店サービス2   一考   

 

 話す機会をなくしたので、こちらで書く。
 力作であり輝く部分を内包したエッセーでありながら、しかし食い足りないエッセーがある。その多くは書き手の定規によって対象が歪められる、その歪みに対する異物感でないだろうか。異物が風通しを妨げ、読後感をしっくりさせないケースは多い。その場合、定規を変えるか手放すしか解決策はない。言い換えれば、目線の移動である。
 林達夫や花田清輝のような万能かつフレキシブルな定規を持つひとは幾人もいない。まず自らの定規を疑ってかかるのが定石である。エッセーから時代考証や比較文学の領域に属するものを刮げ落とし、その上で「私」すなわち自らの定規に基づく発言を注意深く除去する。それでもなお、残る部分がエッセーの核になる。あとは重語法の駆使である。ここではじめて修辞法の出番となる。
 「なにをどう述べてみたところで、ものを著すとはメトニミックすなわち換喩であり、重語法そのものである」とかつて書いた。換喩がいくつもの層をなして重なりあい、目に入る世界のさまざまな現象や物質を勝手に巻き込んで行く。そこまで行けば、書き手がみずから関知しない新たなディメンションに到達してしまうこともある。
 じつは同じエッセーの翻訳を二人で平行して試みようかと思っていた。翻訳とは換喩、言葉の置き換えである。これは実に面白い結果、複雑な屈折をもたらす。そうした重語法的エポケーそれ自体が文学でなかったかと思う。


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2007年06月16日 19:51に投稿された記事のページです。

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