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舌禍の一群   一考   

 

 前項同様、「私情すなわち好悪、言い換えれば趣味と称する自己宣伝」に困惑していると書いた。この件にかんしては、来店してくださる若人に煩がられるほど言い続けている。理由は舌禍の一群から抜け出していただきたいからに他ならない。草の根ネットの時代からウェブサイトを覗いているが、詰らないのひとことである。
 どうして詰らないかと言うに、文章を草するには三つの要が欠かせない。意味内容とセンスそれと手業である。まず、意味内容だが、対象が漱石であれ鴎外であれ鏡花であれ、対象に託つけて自己を述べるのが随筆であり論攷である。表すべき自己を持たなければ、作品の成立過程を時代状況に求めたり、同時代の他の作家の作品との比較考証といった、重箱の隅をつつくような不様を演じることになる。「託つけ」るとは書き手と対象たる作家の内面もしくは内的体験とのあいだに生じるコンフリクトであり、葛藤そのものを書き綴ることに他ならない。ここに肉声の唯一の出番がある。
 次にセンスだが、対象の選択並びにそこから惹き起こされる自己のイメージまでを含めて広義に解釈したい。ウェブでもっとも強調されるのがこのジャンルで、読んだ書物や観た映画の寸評から購入図書目録や作品と思しきイメージの羅列まで囂しい。後者に限ってなら、どうやら五七五であれば俳句で、改行が頻繁になされていれば詩で、そうでなければ散文であるらしい。他人のマスカキを見せ付けられて随喜の涙を流すがごとき奇特の士がウェブを填め尽しているそうな。
 センスとは思慮分別を指す。機微を穿つと言ったときの、その表現の巧みさにこそセンスが顕れる。決して好悪の表明にセンスがあるのではない。そのようなセンスを「臘月のセンス」と呼ぶ。
 過日、某編集者から新人賞の応募作を読まされた。文中に「池袋の街に雨が降ってきた」とあったが、前後を振り返っても街の描写も雨の描写もなにもない。屋根が壁が舗道が木立が雨に打たれてどのように変わっていったのか、その雨はそぼふる雨だったのか篠突く雨だったのか、さらには濡れた街の匂いあるいは雨そのものの匂いはどのようなものだったのか。状況描写を試みようとする以上、そのシチュエーションがどうして必要なのか、その表層的シチュエーションが書き手の内面的シチュエーションといかように響影し合うのか、微視的な重語法を駆使しなければ読み手にはいささかの趣も伝わらない。繰り返すが、霧多布と松江と小豆島に降る雨はまさか同じ匂いではあるまい。その相違に応じて言葉を選び、地名の表明を無用にさせるまでに描き込むのが文学でなかったか。どこまで行こうが、文学とは手業(てわざ)である。

 詰らないのは一考の方で、私たちは多くの友達を得て自給自足しているとの与太が聞こえてくる。確かに、ソーシャル・ネットワーキングの売りは友を作ることらしい。しかして、ひととの出遇いや読書が持って生れた稟質の変更改竄を余儀なくさせるならともかく、拾い得た知識を自らの属性と曲解し、それを出汁に友と称する悉に異(あや)しがるべきものを聚めて悦に入るなど以ての外である。
 喧々囂々と侃々諤々では意味がまったく異なるが、いずれにせよ、大事は遠慮のない直言と大いなる議論にある。もとより、直言とは言いにくいことをいうのであって、非を非と示唆するのはどちらに転ぼうが侮辱にしかならない。指弾が続くことによって、やがて互いの存在を詠嘆し咨嗟し合うようになる。この咨嗟を失意ととろうが失望ととろうがひとさまの勝手であるが、その相方への夢や希望を失くすところから友情がはじまるのではないかと思っている。詠嘆し咨嗟するは天地微妙の大消息深呼吸と相場は決まっている。さればひとの存在もその摂理を遁れられない。友にせよ愛にせよ、それらは独歩に倣えば「天地微妙の大消息」の一端もしくは一過に過ぎないのであって、騒ぎ立てるべき対象とはついになり得ない。


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2007年04月10日 22:21に投稿された記事のページです。

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